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カテゴリ: Dr.岩崎のひとりごと

MERS(中東呼吸器感染症)

2015年6月14日 13:09

DSC_0227.JPG韓国でのMERS流行のニュースが、連日、日本でもメディアに取り上げられています。

交流の多い隣の国で発生している流行のため、多くの人々が日本国内にもMERSが流入し流行するのではないかとの不安を感じているようです。

日本の行政はその不安を解消すべく、韓国での流行は病院で働く医療従事者の感染症対策の不備から発生したもので、日本の病院では院内感染対策の知識も十分にあり、準備をしていることを伝えるとともに、海外からの感染症流入に対しても検疫所などで水際での監視を行っていることを国民にアピールしています。

そんな行政の対応だけでなく、感染症流行を報道する側にもこのところ配慮が感じられ、いたずらに恐怖心をあおるような過剰なものではなくなっていることに私はホッとしています。

これまでSARSや新型インフルエンザ、MERSなどの感染症が流行する度に、感染症の致死率や重篤度ばかりが注目され、さまざまな感染症の専門家が発する意見に振り回されて過剰な反応をしているようにしか見えませんでした。

それを見ながら私は苦々しく思うことが多く、機会があるごとに正しい感染症の知識や、正しい対策による対応を言い続けてきました。

 

20年近く前に熱帯の感染症に強い興味を持った私は、タイの大学で熱帯医学を学ぼうとバンコクのマヒドン大学に入学しました。

そこで初めて感染症の実態を知り、自分が日本で学んで得た知識とのあまりのギャップに愕然としていました。

それを機に、感染症を真に理解するためには、それがどのようにして人々に感染していくのか、その発生源や感染拡大の現実を知ることが重要であることに気づき、感染症の実態を見てみようと思いました。

熱帯で発生する感染症の多くは人畜共通感染症であり、その多くは重篤です。

私はタイの大学にいる間、学校の休みを使っては熱帯の様々な国々へ出かけて行き、そこで暮らす人々の生活習慣や人々と動物との関わり方など感染症が流行する背景を学んできました。

その知識を、熱帯地域で経験するような重篤な感染症が発生する機会のほとんどない日本で、何とか日本の感染症対策に生かそうと感染症の一専門家として過ごして来ました。

 

どんな感染症でも、感染症を考える時には、まずその感染症の原因病原体が何であるか、それがどこに排出され、人がどのようにして体内に取り込むのかなどを知ることが大切です。

冷静にその原因となる病原体の性質を知り、患者から排泄された病原体に遭遇する機会をいかに減らせるかなど、リスクを正しく知って対応しようと言い続けてきたことが、認知されてきているようで嬉しく思っています。

日本人は「ノド元を過ぎれば…」で、感染症の名前が変わると、その都度戸惑い慌てはじめます。

しかし、その慌て方が、少しずつですが変わってきているように感じるのは、私だけでしょうか?

3月は別れの季節

2015年5月 6日 08:44

DCIM0036.JPG春は「別れ」と「新しい出会い」の季節。

桜のピンク色の花弁もほとんど散り、いつの間にか若葉の鮮やかな緑が目に染みる季節になりました。

もうとうに春は過ぎ、初夏になっていたのですね。

 

この春は私にとって特別でした。

それは愛犬ユキとの別れという、何よりも深い悲しみを経験したからでした。

生後3か月で私の元にきてから亡くなるまでの7年間、ユキは私に愛おしい時間を運んできてくれました。

ユキとの生活の中で私が迎えた様々な波乱…。いくつも仕事は変わり精神的にも落ち込むこともありました。

しかし、そんな戸惑う私を支えてくれたのはユキちゃんでした。

ユキは私の家族であり同志だったのです。

 

ユキの病が分かって4か月、苦しみながらも私を気にしてくれるユキがあまりに健気で、その姿を見ながら涙を流すことも少なくありませんでした。

「私の辛かった時代を支えてくれたユキちゃん。何もしてあげられなくてごめんね。天国でゆっくり休んでね。大好きなユキ…。ユキは永遠に、ママの胸の中にいますよ。」

冷たくなったユキの体をなでながら、涙を流しお別れをしました。

 

あれから1か月近く経ち、同志を亡くした私の中の傷は癒えませんが、少しユキのことを話せるゆとりが出てきました。

そして、ユキが私に、「ママ、メソメソしないで…ママらしく頑張って…。」と言っているように感じるようになりました。

 

ユキ、ありがとう!

ずっと一緒に

2015年2月17日 11:51

DSC_0176.JPGブログの更新もさぼって、随分時間が経ってしまいました。

少しの忙しさと、あとの大部分は自分自身の「サボり」です。

 

心を入れ替えて・・・と、ふと思いたち部屋の模様替えをしました。

いつでもその気になったらピアノが弾けるようにと、部屋の真ん中に出した大きなテーブルの半分にキーボードを載せ、余った半分で仕事をすることにしました。

そして、私が家にいる時には、いつでも愛犬のユキとファービーが近くにいられるように、私の足元に彼らが寝ていられるスペースができるように部屋の家具を動かしました。  

                                                                                               

ユキの首にしこりがあることに気付いたのは年末に入る一カ月ほど前でした。

かかりつけの獣医さんに相談し、その腫瘍を検査することにしました。

腫瘍がリンパ腺であることは分かっていましたが、病理の結果が悪性リンパ種とはっきり分かると、私はやはり落ち込んでしまいました。

ユキの治療には抗がん剤治療を選択せず、あまり苦しまずに自然に過ごすことを選びました。

医者として多くのガン患者の治療をしてきた私は、リンパ腫の抗がん剤治療の結果は想像ができましたし、副反応を考えると、最後まで好きにさせてあげたいと考えたのです。

 

そんなこともあって、家にいる時には出来るだけユキのそばで過ごせるようにと、私は部屋の模様替えを決意しました。

今日も仕事をしながら、ソファーで寝ているユキに触れて過ごしています。

あけましておめでとうございます

2015年1月13日 22:27

DSC_0117.JPG2015年が始まりました。

昨年は、自然災害の多発や重篤な感染症の流行に明け暮れた、慌ただしかった年でしたが、

今年はどんな年になるのでしょうか?

 

昨年、西アフリカで始まったエボラ出血熱の流行は、2000年にウガンダで発生したエボラ出血熱流行の対策で現地に赴いた経験のある私にも大きな影響をもたらしました。

いろんなところから、エボラ出血熱の話を聞きたいと声を掛けて頂き、東京、大阪、秋田とお話をする機会をもらいました。

 

メディアの取材や講演会、研修会で多くの人を前に話しながら、自分や家族をエボラ出血熱から守るためにはどうするべきかを、一人ひとりにしっかりと理解してもらおうと話をしてきました。

しかし、まだまだ、「エボラ出血熱」と言うだけで恐怖心を抱く人が多く、このような感染症が地球上には今もあり、それらが時には日本にも入ってくる可能性があることを理解している人は決して多くはないことも、今回あらためて知りました。

私たちはそのような万が一の可能性に対しても、過剰にならずに、

淡々と準備する必要があります。

 

新しい年も引き続いて、感染症に対する準備のために、少しでも役立てばと思っています。

手を洗おう!

2014年12月 4日 14:00

毎年、冬の時期になると流行する感染症に、インフルエンザやノロウィルスによる感染性胃腸炎などがあります。

空気の乾燥や気温の低下などによって、私たちはそれらの感染症にかかりやすくなります。

感染症予防の基本である、『手洗い・うがい』を励行し、この冬を健康で乗り切りましょう!

インフルエンザのように、予防接種で防ぐことのできる感染症は、流行する前に予防接種を受けることをおすすめします。

 

◆手洗い・うがい◆

手洗いは感染症予防の基本です。流水と石けんで手洗いをすることで、手指についてウイルスを洗いながします。また、うがいはのどの粘膜に付着したウイルスを排除すると同時にのどを潤すことで粘膜へのウイルスの付着を防ぎます。トイレの後や料理の前はもちろん、外出後の手洗い、うがいは習慣にしましょう。

 

◆適度な湿度の保持◆

空気が乾燥するとのどの粘膜の防御機能が低下しインフルエンザにかかりやすくなります。特に乾燥しやすい室内では加湿器などを使って、適切な湿度(50~60%)を保つことも効果的です。

 

◆体調管理◆

疲労などで体力が低下した時には病気にかかりやすくなるため、食事や休息をきちんと取るようにして、病気に打ち勝つ体力を維持しておきましょう。また、体調が悪い時には早めに医療機関を受診しましょう。

 

◆人混みへの外出を控える◆

インフルエンザが流行してきたら、人込みや繁華街への外出を控えましょう。やむを得ず出かける場合には、帰宅後によく手を洗い、うがいをしましょう。

マスクではインフルエンザの予防はできません。咳などの症状が出たら、人にうつさないためにマスクをしましょう。

 

◆ワクチン接種◆

ワクチン接種は予防の有効な手段です。万が一インフルエンザにかかっても重症にならずにすみます。特に重症になりやすい高齢者や小児ではワクチン接種を受けるようにしましょう。高齢者では肺炎球菌ワクチンを一緒に受けることをお勧めします。

倚りかからず

2014年8月28日 12:17

私は、宮城県の女性医師で作っている「宮城県女医会」に所属しています。

この会は、女性医師の目線で地域医療を考えたり、女性医師の研鑽を目的に講演会、研修会などを開催し勉強したり、若い女性医師の仲間を支援することを目的に、女性医師の研究に助成金を出したり、また、女性医師による健康相談事業の実施や市民への医学知識の啓発を目的に、タイムリーな話題を選んで公開講演会を開催するなど、さまざまな活動をしている会です。

もちろん、皆、医師としての仕事を持ちながらそのような活動しているのですが、それ以外にも、忙しい時間の合間にサークル活動も楽しんでいます。

趣味の会には、ゴルフ、合唱、オカリナ、朗読などがありましたが、私はどの会にも所属せずにいました。

ところが、女医会の新年会の時に、O先生から、「ロザリーでは、源氏物語を読んだりもするのよ…」の誘いの中の「源氏物語」と言う単語に異常に反応し、「ロザリー」が何をしているのかも良く理解しないまま、グループに入ることにしてしまいました。

そのクラブでは詩や小説を朗読したり、専門家をお招きして解説を聞いたりする会でした。

私には源氏物語に対して、強い思い入れがありました。それは、高校時代に習った源氏物語が忘れられずに、いつかもう一度、源氏物語を読んでみたいと思っていたのです。

 

そんなことをきっかけに入った「ロザリー」でしたが、早速、「女医会総会」の発表会で、自分の好きな詩を朗読することになってしまいました。

私にとっては、生まれて初めての詩の朗読。私は迷わず、茨木のり子の詩の中から、「倚りかからず」を選びました。

 

「倚りかからず  茨木のり子  写真.JPG

もはや

出来合いの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや  

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるつれば

それは

椅子の背もたれだけ」

 

この詩の作者、茨木のり子は1926年に生まれ、第二次大戦の中で青春を送り、人々を勇気づける詩を書いてきた人です。

私は、ジメジメしてなくて、毅然として潔さあるの言葉が並び、しかもそれが、大上段に構えることなくサラリと書かれている彼女の作風がとても好きでした。

中でも、「倚りかからず」は、私の一番のお気に入りで、凛とした彼女の生き方が、そのまま出ている言葉には、小気味の良い作者の人生感がうかがえました。

私は「倚りかからず」を朗読しながら、一つ一つの言葉の意味を噛みしめ、それを正確に伝える難しさを痛感していました。

 

人の前での朗読が初めての私は、家で何度も大きな声を出しながら練習していました。

そんな私を2匹の愛犬は首を傾げながらじっと見ていました。

どくだみの花

2014年6月23日 21:56

ドクダミ.JPG今年も梅雨がやってきました。

鬱陶しい梅雨の時期、雨に濡れて生き生きするもののひとつにどくだみの花があります。

どくだみの白い花は、よく見るとなかなかきれいで可憐です。

でも、その名前に「毒」という音が入るせいか、あまり人々には良い印象をもたれていないような気がします。それはどくだみの生えている場所にも、一因がありそうな気がします。

どくだみは、あまり日当たりの良くない物陰や木陰、建物の影などの薄暗いジメジメした場所に密かに咲いているから、あまり良いイメージではないのかもしれません。

そんな密やかに咲いている花ですが、あの小さな花はなかなかしっかり自己主張しています。

 

「今は私の季節よ!」

 

実は、私の住いの近くにある、わずかな空き地にどくだみの群生している場所があります。

雨の日に地下鉄を降り、家への道を歩き始めた時、その白い花の群生を見つけて私は思わず足を止めました。

雨に中で咲いている白いどくだみの小さな花を見ると、「今年も梅雨が来たな。」と。

私はいつもそうやって季節を確認しているのです。

そして、どくだみの花に向かって、「かわいそうに。誰も振り向いてくれないんだよね。」と、ボソッと呟いています。

春は遠い・・・

2014年3月23日 19:19

tsubaki.jpg日差しは冬のそれとは完全に違ってきていますが・・・、北国の春はなかなかやって来ません。

そんな中でも、今年も3月11日はやってきました。

私は、このところの寒さや、チラつく雪に、震災の後の寒かった日々を重ねてしまいました。

あれから3年・・・。人々はそれぞれの震災への思いを持ちながら、これまで過ごしてきました。

 

いつまで続くのだろうと恐怖心に震えた、強い揺れと地鳴り、けたたましく地震警報を発する携帯の不快な音・・・。何もかもが今まで経験したことのないものでした。

私だけでなく、多くの人が、何が起こったのか理解できずに、地震の揺れが一段落した後も、数分間は時が止まってしまったように感じたと思います。

大きな揺れが止まると、ようやく私は我に返り、座っていた喫茶店の机の上から荷物をまとめ、かばんに詰め込んで、慌てて建物から通りに出た人々の間を我が家に向かって走りました。

そして、マンションに辿り着くと、12階まで駆け上りました。

 

家のドアを開けると、居間に通じる廊下には、左右から倒れた洋服かけや箱などが散乱し、居間の床には、棚や開いた引き出しから飛び出た様々なものが飛び散り、その中を愛犬のユキが飛び跳ねていました。私はユキの姿を見つけ、少しほっと胸をなでおろしました。

しかし、もう1匹の愛犬のファービーの姿が見えません。

絶えず襲ってくる余震の中で、散乱した物を退かしながら必死で探しました。

結局、夜の10時頃、クローゼットの中で、棚の上から落ちてきた帽子の箱の陰で、ぶるぶる震えているファービーを見つけました。脅えて声も出ないでいるファービーを慌てて抱き上げ、ギュッと抱きしめました。

2匹の犬のいた居間は、棚から崩れたものや散乱した食器類、部屋の隅から隅まで動いたキャスター付きの家具などで足の踏み場もなくなっていました。

こんな中で、安全な場所を探しながら、逃げた私の愛犬たち・・・。私は2匹の犬たちを両腕に抱えて、自分のベッドに連れて行き、立て続けに襲ってくる地震の中で、2匹とまんじりともせずにその夜を明かしました。

 

このところの冷たい風と時々舞う雪は、あの日を思い出させます。

「春よ来い。早く来い・・・。」

金木犀

2013年10月30日 21:53

名古屋の美容学校の授業に行くため、旅行鞄のコロコロを引きながら自宅を出ると、ふと甘い香りに気付きました。辺りを見回すと、マンションの玄関の植え込みの金木犀が、小さなミカン茶色の花を付けていました。

時間に追われ、自然を感じるゆとりもなかった私に、金木犀はその優しい香りで、「今のゆとりのない時間は強制終了!」と言っているようでした。

震災の年には、不思議にあまり花を付けなかったマンションの植え込みの金木犀も、震災後3度目の秋を迎え、その小さな花の数も少し増え、どうやら震災前に戻りつつあるようです。

私が名古屋の美容学校の講義を引き受けるようになったのは3年前からでした。

金木犀の香りの中で、私は、「確かに美容学校の講義に出かける時には、いつも金木犀の香りが漂っていた。」ことを、思い出していました。 

美容学校での授業は、1年生と2年生の2回に分けて行います。特に2年生は卒業して、国家試験を受ける大切な時期が、ちょうどインフルエンザの流行と一致することから、2年生には特にインフルエンザなどの感染症に対する注意を自覚してもらおうと、学校の校長のアイディアで、この時期に授業をすることにしていました。

校長の生徒へのそんな温かい思やりや配慮に、私は3年前から、喜んで毎年、名古屋へ伺わせて貰っていました。

実は、私には、他にも名古屋行きを心待ちにしている理由がありました。

そのひとつは、美容学校での講義を始めて以来、毎年、私の相手をしてくれるS先生と、他愛もないお喋りをすることでした。

S先生は私とは正反対で、おっとりした先生でした。その先生と、授業の後、お茶を飲みながらお喋りをし、そのついでに名古屋の歴史的な場所に連れて行ってもらう・・・これが名古屋での私の楽しみになっていました。

S先生は、とても真面目な女性の先生で、長年この学校で教師として働いてこられていました。そんな先生ですから、どうやら私のようにハチャメチャな人生を送ってきた人間は、希少動物のように見えたらしく、私に興味を持たれたようでした。

2人でコーヒーを飲みながら、家族の話、学校での話、同僚の話・・・と、毎年話をしているのに話題が尽きることはなく、今年はお互いの孫の話で盛り上がりました。

お喋りの後、連れて行ってもらった散歩コースは名古屋城でした。

新しく改装した本丸の観覧が今回の目的で、入場するや、その豪華絢爛な内装、調度に驚いてしまいました。それらを見ながら、昔の殿様の力の大きさに、私は感心していました。

   nagoyajyo.jpgsyachihoko.jpg

モンゴル紀行2-サイシャンダ

2013年9月23日 09:29

はじめに・・・

 

モンゴルに行ってから、ずいぶん時間が過ぎてしまいました。

モンゴルの素晴らしい風景を少しでも多くの方に見て頂けたら・・・と、ずっと思ってはいたのですが、私の気力、時間不足などで、なかなかブログに載せることが出来ませんでした。                                         
何とか写真選びも進めて、わずかですがモンゴルの自然の素晴らしさを見て頂きたいと思います。

 

東ゴビ砂漠の一番の大きな町サイシャンダは、ナーダムのお祭りでにぎわっていました。

ナーダムのお祭りはモンゴルの革命記念日を祝う国を挙げてのお祭りで、日本のお盆のように、故郷に帰り、家族、友人などと逢って楽しく過ごします。

そんなお祭りですから、日本在住のモンゴル人も、このお祭りに合わせて故郷に帰ります。

モンゴルから多くの人が来ている角界も、それは同じようでした。ウランバートル行きの飛行機には、浴衣姿のモンゴル出身と思われる力士が同乗していましたし、帰りの飛行機では、白鳳と一緒になりました。きっと、彼もナーダムに合わせて、故郷に帰ったのでしょう。

DSC00219.JPG 

サイシャンダの近くには、高僧ダンザンラブジャーが建てたパワースポットで有名なハマリンヒード寺院があり、特にナーダムの期間には、一般の人々と共に多くの僧侶も訪れるため、街は一挙に賑やかになります。

サイシャンダの町だけでなく、寺院の周辺や町のあちこちに、ブルーの布を巻きつけた碑や僧侶の像などが見られ、人々がそれに手を合わせてお参りをしていました。

モンゴル人の多くは仏教徒で、それはチベット仏教の流れを汲むものでした。

そういえば、サンシャンダで見かけた僧侶は、黄色の袈裟に、赤いベストを着ており、あのチベット仏教の高僧のダライラマの姿と同じでした。

 

サイシャンダはゴビ砂漠の中の町で、ひどく乾燥し、強いギラギラした陽射しが降り注ぎ、時々吹く強い風で砂埃が巻き上げていました。

この辺りは、砂漠といっても、小石や岩があったり、背の低い草が生えており、私達の多くがイメージする砂丘の中をラクダが歩くような、砂漠のイメージとは違っていました。

もちろんゴビ砂漠にブラクダはいましたが、私が他のアジアの国で見たものとは違い、2つのこぶを持つラクダで、私もしっかり乗せてもらいました。

  DSC00155.JPG2つのこぶの間に座り、前のこぶにつかまって乗るのですが、ラクダの毛のふわふわした感じが気持ちよく、そのままずっと座っていたいような心地良さでした。

 

遊牧民たちはそんな砂漠の中を、牛、馬、羊、ヤギ、ラクダに食べさせる草や水のあるところを求め、家族単位でゲルと言う組み立式のテントのような住まいを車に積み、移動生活をしています。ビックリしたのは、モンゴルの砂漠でも文明化は進んでおり、遊牧民のゲルの多くにはソーラーパネルが設置されていて、家の中では電気が使え、パラポラアンテナでテレビを見ていました。

 

今回の旅行を企画し、私を誘ってくれたカンちゃんには、サイシャンダに行く大切な理由がありました。モンゴル初心者の私に、サイシャンダの町や、そこでの国を挙げてのお祭り、ナーダムを見せたかったのはもちろんですが、それ以外に、カンちゃんの所で3年間大工の修行をし、モンゴルに戻ったお弟子さんの働いている姿を確認したかったようでした。

純朴そうなカンちゃんの弟子は、サンシャンダの町で博物館の建設に関わり、しっかり大役を果たしていました。その姿を町で目にしたカンちゃんはとても満足げでした。

彼は私たちを音楽会に招待してくれ、モンゴルの歌や馬頭琴、さまざまな楽器の演奏、踊りを2時間ほど楽しんだ後、私達はツーリストキャンプに戻り、ガソリンスタンドで給油して翌日の旅行に備えることにしました。

そのガソリンスタンドで、私は自分のハンドバックの中の財布が無くなっていることに気が付きました。その時、ウランバートルを出るときに言われた、「この頃、モンゴルではスリが多いから気を付けるように・・・。」と、言われた言葉をふと思い出していました。

まあ、迂闊なバックの掛け方をしていた私に問題があったのは確かなので、私はカードが無事だったことをラッキーと思い、その日はキャンプに戻りました。

 

帰り道の夜空は、まるで宝石箱をひっくり返したような満点の星空でした。

それを見ているうちに、私は財布をすられてしまったことなんて、小さなことのように思えてきました。

カンちゃんともう1人の友達はバイクで私とは別に一足早くキャンプに向かいました。

私を乗せた車はキャンプに向かって走り出しましたが、地元の運転手のザフですら、標識など一切ないこの地では道に迷います。

  DSC00065.JPGザフは時々車を止め、空を見上げ、星を探して、方角を確認していました。

2人とも全く言葉は通じないまま、キャンプの方角と思う方向を、勝手に指さしながら、「あっちだ。」「こっちよ・・・。」と、夜の砂漠をしばしさまよいました。

そんな道に迷っている最中でも、ザフは呑気に車を止め、ハリネズミを追いかけると、Gジャンを車から取り出して被せて捕まえていました。

そして、Gジャンに包んだハリネズミを、車の後部座席に「ポイ」と入れました。

ハリネズミはGジャンの中でごそごそ動いていましたが、そのうち諦めたようにおとなしくしていました。

 

私はザフの捕ってきたハリネズミを見ながら、「このネズミ、ペストは大丈夫だろうか?クリミア・コンゴ出血熱は?」と、ふと、自分が感染症の専門家であることを思い出していました。

モンゴル行

2013年8月 7日 20:11

写真.JPG1.エピローグ

 

長い間の念願だった「日本脱出」の旅先をモンゴルと決めたのは、今年に入ってからでした。

私は、インド、タイ、パラグァイなどの途上国はじめ、海外で生活をしていた時間が長かったことから、日本国内での生活が長く続くと、ついつい息苦しさを感じてしまい、何年に1回かは日本を離れ、外の国の空気を吸い込み、気分転換をして、新たな気持ちで仕事をする・…という生活をしてきました。

ちょうど東日本大震災の頃、そろそろまた日本脱出をと考え、シリア、ヨルダンに出かける計画を立て、17,000円(確か・・・)を払ってシリアの入国ビザを取得し準備を整えていました。

ところが、その矢先にあの震災が起こり、旅行どころではなくなってしまいました。

 

地震で家の中は家具や食器、本などが散乱するし、電気は点かない、水は出ない、食料もない…。そんな状態でマンションの12階で生活するのは不可能と考えた私は、一時的に新潟へ避難をすることにしました。

その時に新潟で出会ったのが、今回のモンゴル旅行へ誘ってくれたカンちゃんでした。

カンちゃんは新潟で、ご飯を食べながら、「毎年モンゴルに桜を植えに行っている。」と、話してくれました。

その時の話が私の頭の中に残っていて、機会がある度にメールなどで、「いつか私もモンゴルに連れて行って・・・。」と、お願いしていました。

 

それが今回の旅の始まりでした。

袖触れ合うも多少の縁・・・まさに一期一会です。

今回の同行者はカンちゃんとカヨちゃん。2人のオフロード・ライダーでした。

カンちゃんは大工さん、カヨちゃんは建築士、私は医者。バイク仲間の2人に私が紛れ込んでの3人の旅が、7月24日のウランバートルから始まりました。

ジャカランダ

2013年7月 1日 22:22

20130629.jpg毎日、私の手元には、数通のダイレクトメールが送られてきます。

通常なら開封もしないまま、ゴミ箱に捨てているダイレクトメールを、何を思ったかその日は手に取り、封筒をわざわざ開封までして、中に入っているパンフレットに目を通しました。

そして、その中のひとつ、ゆとりある中高年を対象にした旅行パンフレットに手が止まりました。

あちこちに藤色のジャカランダの花が咲いた南アフリカの町の写真と一緒に、「南半球花紀行南アフリカジャカランダの咲く南半球へ」というキャッチコピーが添えられていました。

ジャカランダは私の大好きな花のひとつでした。

そのパンフレットの写真を見て、あまりに懐かしくて、嬉しくなっていました。

 

ジャカランダはノウゼンカズラ科に属し、熱帯・亜熱帯地域に生息している植物で、和名では紫雲木(シウンボク)と呼ばれ、葉はちょうどねむの木のようで、薄紫の花を咲かせる木でした。特に、インドに滞在中、このジャカランダの薄紫の藤のような花に、どれだけ心が癒されたか・・・・ジャカランダの花の咲く街の写真を見ながら、ジャカランダの花の咲くインドでの日々を思い出していました。

 

私がインドのベルガムで仕事を始めたばかりの頃、隣村の歯科医が病院に私を訪ね、「是非、私の診療所にもお出でください・・・。」と、声をかけてきました。

その歯科医は名前をパトネイさんと言い、隣村のガディーングラージュの名士の息子さんでした。彼は歯科医院を開業する傍ら、イギリス式の幼稚園、小・中・高校や、いくつかの工場を経営している、この地域で期待されている若い実業家でした。

 

数日後、私は彼の歯科医院を訪れました。

彼の歯科診療室は、粗末な街中の家の2階にありました。そう立派とは言えない彼の診療室の中で、彼は私に、「ここに病院を建てて、この地域の人々に近代的な医療を提供するのだ・・・。」と、熱く語ってくれました。

 

雨季の前に、パトネイさんは私を「ピクニック」に誘ってくれました。

ピクニックはインドでは時々、お客様へのおもてなしとして行われるものでした。

パトネイさんのブドウ畑に大きな絨毯を敷き、金属のお弁当箱のようなものに、さまざまなお料理を入れて絨毯の上に並べ、その周りに人々が集まり、お喋りや食事をしながら、賑やかにひとときを過ごすものでした。

さすが、ガディーングラージュ名士の息子のパトネイさんだけに、ピクニックは盛大でした。

そのピクニックが終わりに近づいた頃、彼は私に自分の車の中から、病院の青写真を持ってきて計画を語ってくれました。

病院では、歯科だけでなく、がんの医療ができる病院にしたいと、熱を込めて話してくれました。

確かに、インド人の多くが嗜む「噛みタバコ」が原因で、インドには口腔がん患者が多く、その予防対策に国を挙げて取り組んでいるところでした。しかし、インドの医療体制の整備は不十分で、患者は決して減少していませんでした。

私は地方での患者の発生状況を見ていただけに、ガディーングラージュのような田舎町にも、口腔がんの医療や予防に力を入れるインド人の医師がいることを知りほっとしました。

 

日が傾き始めたころ、彼はふと真剣な目をして、「実は星占いで、今年出会う女性に影響を受けるので、その人を大切にしなさいと言われています。」と、彼は自分の生まれながらの「星」を語り始めました。そして、彼はその女性が私であると言うのです。

 

パトネイさんの地味な努力は続けられ、終に病院の竣工にまで漕ぎ着けました。

病院の玄関の記念のプレートに、私の名前が入っているのを見た時には、彼の本気度を知り、驚きましたが、結局、私はその病院の完成を見ずにインドを離れました。

インドを離れる前、私はパトネイさんの診療所に挨拶に行きました。

彼は私に、「日本に帰っても、絶対にガディーングラージュに戻ってきてください。いつでも待っています。」と、寂しそうな目をして私の手を握りました。

彼の手を握りながら、私の目には涙が溢れ、目の前のジャカランダの藤色の花が滲んでいました。

今頃、あのガディーングラージュの病院はどうなったのだろうか・・・?パトネイさんは元気でやっているのだろうか・・・。パンフレットの表紙のジャカランダの花を見ながら、私はふとインドのパトネイさんやガディーングラージュの町を思い出していました。

筋肉痛

2013年5月21日 21:18

hanamizuki.jpg5月16日の新潟は朝からムシムシして、鬱陶しい空気に覆われていました。

その日は、私の三条での仕事の日でした。

ただ、その日はいつもと違うペットホテルに愛犬のユキとファービーを預けて出て来たことが気になり、いつもなら仕事の後に病院の事務長とお昼を食べながらのんびりお喋りするところを、早めに切り上げて、仙台への帰路につきました。

 

三条から上越新幹線「トキ」に乗り込むと、私は条件反射のように、昼食後のお昼寝モードに入っていました。その時、車内放送が聞こえてきました。

「4号車で具合の悪い人がおられます。看護師さんかお医者さんがおられましたらご協力願いいたします。」

私は、この放送に一瞬立ち上がろうとしましたが、「これだけの人が乗っているんだから、私以外にも1人くらい医者はいるに違いない・・・。」と思い、私は立ち上がり掛けた腰を席に降ろしました。

座ってはみたものの、「具合の悪い人ってどのようなのかな?」と、いつものように、私の中のオセッカイの虫が騒ぎ、「とりあえず行くだけ行ってみよう・・・。」と席を立ち、8号車から2階建ての新幹線MAXの階段を上ったり降りたりしながら4号車に向かいました。

4号車の5号車側の入り口のドアが開けられ、そこに男性が横たわっていました。男性の周りには数人が集まっており、看護師と名乗る若い女性が、男性の背中を擦ったり、脈を取ったりしていました。

私はまず倒れている男性を覗きこみながら、彼の傍らの慌てている様子の乗務員に向かって、「医師ですが・・・」と、名乗りました。

看護師は私の方を見上げ、ほっとしたように「脈が弱いんです・・・」と、状態を報告してくれました。

横たわっている男性はびっしょり汗をかいており、気持ちが悪いと訴えていました。

私は周りの人にビニール袋を調達しもらい、男性にはトイレまで動かずに、この袋の中に吐くように伝えました。

多分、気分が悪くなり、トイレまで行こうと立ち上がって、この辺りで倒れたのでしょうか・・・。

ビニール袋の中の彼の吐物には、消化されていないお蕎麦がそのまま出ていました。そして、少しアルコールの臭いがしたので、「お酒飲んだ?」と、私は男性に尋ねました。

「今日は飲んでいません。夕べ飲みました。」と、彼から返事が返って来ました。

「夕べ飲みすぎたね・・・」と私が男性に声をかけると、頷いていました。

吐物の中には出血もなく、他に特別なものも見られないし、脈は微弱とはいえども意識はちゃんとしているので、私は乗務員に「心配はないと思うけれども、大事をとって次の駅で救急車に待機してもらい、病院へ運んでもらう方が良いと思いますよ。」と伝えました。

次の高崎の駅で、近くに乗り合わせていた男性乗客数人が、力を合わせてホームまで男性を運びだし、迎えに来ていた救急隊に彼を託し、私たちは新幹線に戻りました。

新幹線は6分遅れて高崎を出ました。

私も看護師も新幹線に戻り、お互いに「ご苦労様でした。」と声を掛け合いました。

私は感染症の専門家として、2人の看護師には、「吐物に触れているので、よく手を洗ってくださいね。」と言うと、また階段を上ったり、降りたりしながら、8号車の自分の席に戻りました。

 

夕方、仙台に戻り、無事にユキとファービーをペットショップから引き取り、家で夕飯の準備を始めると、ふと昼間のことが思い出され、「今日の男性はどうだったかな・・・」と、ぼんやり考えていました。その時、私は太ももに違和感を覚えました。

「あれ?この痛みは何?どうしたのかな・・・。」

夜になると、その太ももの痛みは、もう少し強くなってきました。

私はお風呂の中で、その痛みの原因をようやく思い出しました。

「ああ、これは新幹線の階段を上ったり、降りたり往復したせいだ!」

ジェーン・バーキン

2013年4月 7日 20:30

securedownload.jpg3月のその日は久しぶりの晴天で、ようやく仙台でも春の気配が感じられるようになっていました。

朝、家を出る時に、薄めのコートにしようか、それとも冬のダウンのまま行こうかと迷いましたが、私は「新潟へ行くのだから冬物でしょう・・・」と、黒のファー付きダウンコートを引っ掛け、新潟へ向いました。

 

東北新幹線「はやて」に乗り、グリーン席に着くと、見覚えのある外国人の女性が私の隣に座りました。

その女性は、同行者と思われる日本人女性と外国人の男性と顔を付き合わせて、何やらしばらく話しをしていました。車掌を呼び、どうも席の調整を尋ねたようでしたが無理らしく、少しすると3人はそれぞれの席に座りました。

私の隣の女性は、スカーフで髪の毛を結んだ痩せ型のスタイルの良い素敵な雰囲気を持った女性でした。私はその女性を見かけた時から、「どこかで見たことのある人・・・」と感じていました。

彼女は席でゆったりしようと決めたのか、椅子の背もたれを倒そうとしていましたが、その方法が分からないらしく、一緒に来た仲間の方を振り返っていました。

私は彼女に、「椅子を後ろに倒すには、その横のボタンを押して、寄りかかると良いですよ。」と英語で話しかけました。彼女は背もたれを倒し、私のほうを見てニッコリ笑いました。

その時、私は彼女が誰であるかを思い出しました。

 

(彼女は女優のジェーン・バーキンさんだ!)

 

背もたれを倒し、足元の自分の荷物を整理し始めた彼女の足元には黒のエルメスのバーキンが無造作に置かれており、その中から本を出して膝の上に載せました。

私は意を決して彼女に声をかけました。

「ジェーンさんですか?」

「ハイ、そうです。」

「どこに行かれたのですか?」

「石巻で復興支援のコンサートを開いたのです。」

「そうですか・・・ありがとうございます。私たちのために心遣いいただいて・・・。」

それから彼女は、震災の直後から被災地に入って支援をしたかったが、放射能のこともあり、医師に止められ、1年後にようやく被災地で支援コンサートをした話しや、ハイチの地震でもすぐに支援に行った話を私にしてくれました。

彼女は新幹線の前の席の背中のポケットに入っている「トレインショップ」の冊子を開き、孫のためにお雛様を買いたいと、冊子の中の写真を私に指差しました。私は日本人のスタッフに聞いてみるように彼女に薦めました。

 

別れの時、彼女は石巻でのコンサートのプログラムにサインをして私に渡してくれました。

そして、互いに手を振り別れました。

 

「オーボア」(さようなら。)

「オーボア」(さようなら。)

 

わずか1時間の短い時間でしたが、とても素敵な出会いで、私は心が温かくなっていました。

久しぶりに冬の札幌に行きました

2013年3月 1日 22:03

IMG_1119.jpg久しぶりの札幌は、大通り公園の時計台も、道庁の赤レンガの重厚な建物も、雪に埋もれ吹雪の中で霞んでいました。

私は何十年か前に1年だけ札幌に住んでいたことがあります。

当時、私は新潟大学の医学部を卒業したばかりで、初めて故郷の新潟を離れ、やって来たのが札幌だったのです。

ここで私は北大医学部の耳鼻科教室に籍を置き、医局員として仕事を始めました。

しかし、少しだけ勤務した母校の耳鼻科教室とでは何もかもが違っていて、馴染めない医局、知っている人もほとんどいない中で戸惑う毎日を過ごしていました。

特に冬の札幌は過酷で、時には1日中降り続く雪、何もかも凍らせてしまうような気温が、私の心をさらに重くしていたような気がします。

そのため、私の中で「札幌」と言う固有名詞の響きは、「寒さ」と「町の人々のよそよそしさ」、それに、「心が折れそうになっていた暗い時間」を思い出させるだけなのです。

 

ただ、冬が明けて雪が溶けると、あの凍った町と同じなのかと思うくらい一変するのです。レンギョウ、クロッカス、スイセンなどの花々が一斉に咲き、足元の緑も日に日に鮮やかさを増し、そのうちリラの花も咲き始めます。

そんな豪華な春は、厳しい冬を過ごした北国の人々への神様からのプレゼントのような気がします。

 

今回はあまり時間がなかった上、雪が凄くて歩き回ることは出来ませんでしたが、友人の桑原さんが吹雪の中で撮った写真をお借りしました。

そこだけ時が止まったように昔のまま、吹雪の中にドッシリと立つ風格ある建物は素敵です。

雪国の知恵

2013年2月17日 22:26

DCIM0128.JPG今では週一の新潟通いも、何となく私の日常生活の一部となってしまいましたが、もう何年続いているでしょうか・・・。

新幹線のチケットを駅で買う度に、私の週1回の往復の旅費を考え、「きっと私は仙台駅の復旧に貢献しただろうなあ・・・。」と、勝手に思ってニヤリとしていました。

 

普段、温度や湿度などが一定に管理されたオフィスで過ごす私にとって、日常生活の中で季節を感じるのは、精々、通勤途中のわずかな時間が精一杯でした。

ですから、ちょっと大げさかもしれませんが・・・、この新潟への新幹線通勤の時間は、私が人間として、この自然の中で生きていることを実感できる大切な時間です。

車窓から目にする風景は、私に四季をしっかり見せてくれますし、駅に降り立った時に肌で感じる風や空気は、ゆったり流れる時間の中で季節を味わえる、嬉しいひと時です。

 

雪国育ちの私は、雪が少なく、冬でも鉛色でなく、青空の見える土地での生活に憧れを持ち続け、仙台をことのほか気に入っていた私でしたが、今年の仙台の冬はいつになく厳しく、この私でさえうんざりしていました。

先週も、雪で混乱した仙台の町から新潟へ向いながら、改めて雪国の新潟がいかに雪への備えをしているかを実感していました。

何よりも上越新幹線は雪ではほとんど止まりません。

雪国の生活を支えるために、必死で様々な秘密兵器を駆使して努力しているのです。

雪の多い地域では、線路の両側からスプリンクラーでかけられる地下水と、冷たい空気の中でかけられた地下水から立ち上る湯気の中を新幹線が走るのです。

地下水は4℃くらいですから、レール上の雪を溶かすには十分です。

まあ、これは外気温もそう低くない新潟だから可能な消雪対策なのでしょうか。街中にも同じようなシステムが使われています。

それは道路に埋められた消雪パイプで、雪が降ると小さな穴から地下水がチョロチョロと道路に排出されて雪が積もらないようにしているのです。

 

そんな新潟での日が懐かしく思い出される、今年の仙台です。

インフルエンザ奮闘記

2013年1月27日 18:13

DCIM0120.JPGこのところの気温の低さはインフルエンザ流行にとっては絶好の条件になっています。

仙台市内でもインフルエンザが流行し、小学校の休校も増えています。

私の勤務している会社でも体調不調を訴えて「健康管理室」を訪れてくる人が増え、その多くがインフルエンザ検査キットでインフルエンザウイルス陽性と確認されています。

 

年末から続いた会合、その上、新潟、東京へと旅が続き、寝不足と疲労が溜まった私も、とうとうインフルエンザに罹ってしまいました。

自分で「これはインフルだ・・・」と自覚した症状は、鼻の中にヒリツク痛みと、頭痛でした。

まさに教科書どおりです。体内に入ったインフルエンザウイルスは、鼻の奥の粘膜のリンパ腺で増えるのですから・・・鼻の中の粘膜の炎症で痛みが出るのです。

その段階でタミフルの治療が始められれば、早い時期にインフルエンザウイルスの増殖を抑えることが出来るのですが、この時期では咳が出たり、咽の痛みが強くなったりしないことから、多くの人は医療機関へは行きません。そうしているうちに体内のウイルスはどんどん増え、本格的なインフルエンザになってしまうのです。そうなると、インフルエンザの治療には時間がかかってしまいますし、他への感染拡大も招いてしまいます。

 

一応、プロの私は、典型的なインフルエンザの始めの症状を意識し、タミフルを飲み始めました。最初の一錠で、鼻の奥のヒリヒリはなくなり、頭痛も止まり、熱も上がらなくなりました。

でも、体調はまだ不調です。私はその日の夜にもう一錠タミフルを飲み、そのままベッドに入りました。

昨日のタミフルが効いたのか、翌朝には嘘のように症状は消えていました。ただ、体調は全く元気とは言えませんでした。

 

私にとっては久しぶりのインフルエンザでした。ウイルスが体に取り付き易いような自身の不摂生を痛感し、インフルエンザの予防には「早寝」、「早起き」、「朝ごはん」と、常日頃から子供達に言っていながら、それを守らなかった自分をプロとして恥じました。

それに、タミフルの役割を良く知り、それを上手く使うことがインフルエンザの一番の治療と、再認識したこの数日でした。タミフルはインフルエンザウイルスの増殖を抑えるための薬で、その間に自分の体力を回復させ、インフルエンザウイルスを克服するのが、インフルエンザの治療法なのですから・・・。

 

昨日も一日中雪がシンシンと降り続き、仙台は銀世界です。

今朝、マンションの入り口に、雪に埋もれた赤い雪椿の花を見つけ、私はその健気さが嬉しくなっていました。

アレッポの悲劇

2012年11月25日 22:21

DCIM0099.jpg最近のシリアはどのようになっているのでしょうか。

先日もダマスカスで政府軍と市民が戦闘を繰り広げ、多くの市民に犠牲者が出た様子がテレビで放映されていました。

この頃では、戦闘場面や破壊された建物などが、時々映し出されるテレビの画面でしか、シリアの様子を垣間見る機会はありません。

いつも目にする映像からは、壊されて廃墟のような街、その中に響き渡る銃声や爆弾が破裂する音と血だらけになって逃げ惑う市民の様子が見られるだけで、市民は・・・と心配になります。

特に、アレッポ、ダマスカスと言う都市の名前を耳にするたびに、私の視線はテレビの画面に釘付けになってしまいます。

 

実は、東日本大震災が起こらなければ、3月19日から、ダマスカスからアレッポ、そしてヨルダン・・・と久しぶりの休暇を楽しむ予定だったのです。

それは、私にとって初めての中東旅行になるはずでした。

しっかりとシリアの入国ビザも取り、準備万端・・・と、とても楽しみにしていました。

あの大きな揺れに襲われるまでは、私はダマスカスやアレッポのバザールの中の細い路地を歩きながら、アラブのスパイスやアラビア摸様の民芸品、衣装、飾り物などのショッピングを楽しんでいたはずでした。そして、ヨルダンではベドウィンのキャンプで、夜の星空を見ながら一晩を過ごす自分を思い描いて楽しみにしていたのでした。

しかし、あの地震が私からその機会を奪ったのでした。

幻のシリア、ヨルダン旅行が私に残してくれたものは、その時に取ったシリア入国のためのビザ、そして、ヨルダンに住んでいた友人を訪ねるつもりだった私に、その友人から頂いたお土産のヨルダン製のガラスの色鮮やかな器、「死海の泥」で作られた石鹸、ヨルダン刺繍のカード入れ・・・それと、これらを目にする度に込み上げる悔しい思いでしょうか。

起き上がり小法師

2012年10月14日 21:16

DCIM0067.JPGふと、気がついたら数日前まで辺り一面に漂っていた金木犀の香りもすっかり消え、顔に当たる風もひんやりしていました。

私が講演、研修会、病院と慌しく動いているうちに時は過ぎ、10月も半分になっていました。

今年の夏の暑さにすっかり体力を消耗してしまいました私は、その夏バテも完全に回復しないまま秋に突入し、何となく力が入らないグウタラな毎日を送っています。

そんな暑かった夏の終わりに近いある日、私は仙台の街中に出かけました。

その日も日中は30度を超え、焼け付くような陽射しが降り注いでいました。

少しでも車の中が暑くならないようにと、私は地下の駐車場に車を入れ、駐車場の上の勾当台公園に出ました。

久しぶりの勾当台公園。市民広場には、カラフルなのぼりが立ち並び、テントが幾つも並んでいました。その賑わいに引きずられるように私は催事が開かれている広場の方に向いました。

広場のあちこちに立っているノボリを見渡すと、そこではどうやら東北各地の特産品などの販売や地域のPRが行なわれているようでした。

私は一番近いブースの前の「あかべこ」のノボリが立つブースを覗きました。

そのブースの中のテーブルの上には、小さな起き上がり小法師が並んでいました。

この小さな起き上がり小法師は会津の民芸品のひとつで、昔から正月に売られていたことは、会津と比較的近い新潟出身の私は知っていました。

この小さな小法師は転んでも転んでも起き上がって、忍耐強く、そして元気だ・・・ということから、会津ではお正月に家族の数より一つ多く買い求め、神棚に並べて家内安全を祈るのだと聞いていました。

 

そんな起き上がり小法師のイメージが、あるテレビの一シーンのお陰ですっかり崩れてしまいました。

民主党が政権を取ったばかりの頃、民主党の大御所の渡部恒三氏が自慢気にこの起き上がり小法師を記者達に見せながら、「転んでも必ず起き上がる・・・民主党はこの起き上がりと同じだ。」と自慢し、その人形を記者の前で転ばせて見せました。

ところがその起き上がり小法師は寝たまま、起き上がらず、記者の失笑をかっていました。

そのせいで私の中の可愛い起き上がり小法師のイメージはすっかり崩れてしまいました。

でも、そのシーンのお陰で多くの人々がこの起き上がり小法師の存在を知ったのではないでしょうか。

私はすかさず販売している男性に、「まさかこの起き上がり小法師は、渡部恒三さんの起き上がれなかった起き上がり小法師ではないよね。」

彼は、まずそうな顔をしながら、「やはりテレビ見てました?ハハハハハ」と照れ笑いをし、3つ、4つ、起き上がり子法師を取り上げ、それを横にして起き上がるかどうかを私のために確かめてくれました。

小さな起き上がり小法師を並べてくれたニコニコしたお兄さんは、会津市役所から来たと話していました。私が「会津の近くの新潟出身なんです。」と言うと、彼は私に、「今回の福島原発の事故では、いちばん新潟が福島の人を受入れてくれたんですよ。新潟には感謝しています。」と嬉しそうに話してくれました。

私はその話しを聞きながら、新潟人であることを誇りに思い、嬉しくなっていました。

先日テレビニュースを見ていたら、なんとこの起き上がり小法師が、日本で開かれているIMF会議のお土産の中に入っているではありませんか。

私の頭の中にはあのニコニコしたお兄さんの顔が浮かんできました。

名取の行灯松

2012年8月12日 00:19

DCIM0033.jpg今年も民族大移動の季節がやってきました。

仙台駅は子供連れの家族で溢れ、日頃、この辺りではあまり見かけないような雰囲気の人々が、土産物屋の袋を提げて駅構内を歩き、聞き慣れないアクセントの言葉が飛び交っています。

気が付いたら、今年も夏休みの帰省ラッシュが始まっていました。

 

この夏休みの私の予定は、北九州で産業医大主催の研修を受けることでした。昨年中に研修受講の申し込みをしていましたので、1年前から決まっていた予定でしたが、この研修が私の今夏のビックイベントになっていたのでした。

研修期間は1週間、朝8時から夕方7時までと、かなりのハードスケジュールでした。

参加者は600人の医師で、最高齢は80歳代から、20代の若い先生、私のくらいの年齢の人もいれば、定年間近な先生方、すでに第一線を離れて産業医に興味を持った・・・と言う先生方も多く見られました。受講生の中に旧友が居たり、隣に座った先生と親しくなったりしながら1週間を過ごしました。

今回始めて真剣に学んだ産業医学でしたが、授業の中では新たな発見が多く、個人の健康を診る医師として長年働いてきた私にとって、企業内の社員の健康や安全を考え、彼等の働く環境の安全を考えることが、企業のためにも働く人々のためにも大切であり、それが産業医学であることをこの研修を通して学んできました。

 

産業医大は、八幡製鉄などの多くの工場が集まる北九州工業地帯にできた大学でしたが、大学は緑に囲まれており、講堂から一歩外に出るとクマゼミのジージーと言う声の大合唱が辺り一面に響き渡り、研修期間の気温が連日37度にも係わらず過ごしやすく環境の良い大学でした。

ただ、難点は講堂の椅子が座り難く、すっかり腰を痛めてしまい、帰宅後に近くの整体で治療を受ける破目になってしまいました。

そんな北九州の研修を終え、飛行機の窓から、海霧の中に見える津波の名残が残る名取の行灯松を見た時、「ああ、仙台に帰ってきたな・・・」と、ホッとしていました。

 

 

枝垂桜

2012年7月15日 23:06

tamon.JPGあの震災から1年以上の時が経ち、その痕も少しずつですが片付いてきています。

しかし、被災された人々の受けた心の傷は、そう簡単に癒されるものではないでしょう。

私には、震災後、やり残したことがありました。

それは、被災地に桜の木を植えることでした。

 

実は、震災の半年後位に、私の母校である新潟県立中央高校から、一通の手紙と共にお見舞いを頂いていたのです。

それには、「被災地への義援金はすでに出してあるので、それとは別に、あの恐怖を体験された皆さんに美味しいものでも食べて頂きたい。」と書かれていました。

新潟の同窓会の会長とは以前より個人的に交流があり、会長は私に同窓会仙台支部の方々への思いを託したのでした。

幸い、仙台在住の新潟中央高校卒業生の中には、酷い被害を受けた人もなかったのですが、「何か美味しいものでも・・・。」と言われても、そんな気にもなれずにいました。

私は手元に届いたそのお金を、私の独断で、被災地域に役立つことに使おうと考え、桜の苗木を送ることを思いつきました。仙台支部の同窓会メンバーには、その後の会で、被災地に枝垂桜の苗木を贈ることで了解を貰いました。

 

実際は、それからが大変でした。一番の問題は植える場所でした。何しろ津波の被害を受けた地域は、未だ土地の使用状況も決まっていない上、都市計画も多くの地域では未定で、植樹する場所をなかなか決めることが出来なかったのです。

震災から1年が過ぎた頃、「そろそろ決めなければ・・・」と、私は被災地域に再び問い合わせてみました。

しかし、その時点でも、まだ、植樹できる場所を見つけることは出来ませんでした。

 

そんな時、私はふと、今回の震災で津波の被害を受けた七ヶ浜町を思い出し、以前に面識のあった町長に地元の消防署長を通して問い合わせてみることにしました。

町長は申し出を快く受入れてくれ、七ヶ浜の多聞山の一角に枝垂桜を植える場所を用意してくれたのでした。

わずか5本の枝垂桜でしたが、6月の初めに同窓生達と、多聞山に無事植えることが出来ました。

未だに、津波で浸水した地域では、都市計画なども決まっていない所も多く、木一本でも植える場所を決めるのでさえ、難しいことを思い知らされました。

 

七ヶ浜は、私には馴染みの場所でした。

私は1999年11月から9年間、塩釜にある仙台検疫所の所長として勤務していました。

その時には、時々訪れていた七ヶ浜。特に、菖蒲田浜の海岸は、夏になると海水浴に出かけた場所でもありました。それが今では、すっかり津波で流されて、海岸が無くなってしまったのです。

震災後、すっかり流されてしまった菖蒲田の海岸がかつてあった場所を見ると、あまりの惨事に胸が痛くなります。

 

何年か後に枝垂桜の木が大きくなり、多聞山で綺麗な花を咲かせ、それが地元の人々や多聞山を訪れた多くの人々の心を和ませてくれることを心から願いながら、若木の苗を植えました。

 

時計草

2012年7月 1日 15:24

DCIM0029.jpg私は泣き虫な女の子でした。

今はこんなに恐いおばちゃんになっていますが、子供の頃は、人前で何かをしようとすると緊張で涙が溢れ、友達と遊んでいても強く言われては泣き、感激しては泣き・・・とにかく涙もろい泣き虫でした。

ただ、親の前では涙を見せたくなかったのか、涙で濡れた目の周りをそのままにせず、「外で泣いてなんかないよ」と、そ知らぬ顔で家に帰っていました。

それがいつの間にか、私は涙を流すことも、泣くこともあまりなくなっていました。

それは感性が鈍くなったからでしょうか、それとも逞しく強くなったせいでしょうか?

 

先日、東京で久しぶりに孫の詩織と会いました。

詩織は小学生になって少し背も伸び、外遊びのせいか、顔も浅黒くなって、逞しくなっていました。

その詩織が、小学生活を尋ねた私に、「私ね。ビビリで泣き虫なの・・・。」

私は自分のことを私に話す詩織の表情が愛おしくなり、肩を抱きながら、「大丈夫。恵美子も泣き虫だったんだから。それに、ビビリだったし。シーちゃんの性格は、おばあちゃん譲りかな。」

「フーン・・・かもね。」と答えながら、詩織は私の手をギュッと握りました。

 

今年も三条の病院の近くの食堂のおばちゃんが、丹精込めて育てた「時計草」が店の玄関で咲きました。

私が「時計草」を初めて知ったのは、地球の裏側のパラグアイでした。時計草はパラグアイの国花で、花びらの色が鮮やかな赤やブルー、黄色、こげ茶など毒々しいくらい華やかな花でした。

ある時、アバイでの検診を終え、眩しい夕日を浴びながら、ホッと一息ついていた私に、同行したパラグアイ人医師のジニが、その花をニコッと微笑みながら私にくれました。

当時、孤軍奮闘していた私を励ましてくれた地元の若い医師の優しさに、私の目は涙で溢れていました。

私はこの「時計草」の花が咲く季節になると、その時の涙を懐かしく思い出すのです。

私と乗馬

2012年6月17日 14:36

DSCF0197.JPG新緑の中を吹きぬける爽やかな初夏の風に吹かれながら馬に乗る・・・。それがこのところの週末の私の楽しみになっています。特に、馬の背の高さで感じる風は格別。

私のいつもの相手は、サラブレットの牝馬ミューちゃんです。

週末の乗馬クラブで、ミューちゃんのやさしい瞳に出会うと、嫌なことは何もかも忘れてしまいます。

そんな週末デートの日の朝はハイテンション・・・。まるで恋人に逢いに行く乙女のようです。

 

そもそも私が乗馬に興味を持つきっかけとなったのは、大学生の頃に読んだ小説「アラビアのローレンス」でした。それを映画化した映画「アラビアのローレンス」を観た時には、主人公のローレンスと、彼を演じたピーター・オツールが余りにもピッタリで、私はますますローレンスの虜になってしまいました。オスマントルコの迫害に抵抗して、独立を目指すアラビアの部族を引き連れて馬で砂漠を疾走するローレンスの姿にすっかり惹かれ、私もいつか馬に乗って駆け巡りたいと思うようになっていました。

その後、偶然観た、「誰がために鐘は鳴る」と言う古いアメリカ映画の1シーンも、私の乗馬への思いを一層強くしました。それはヘミングウェイの同名の小説を映画化したもので、舞台はスペイン戦線で、権力に立ち向かう人々の姿が描かれていました。実際にヘミングウェイはその戦争で従軍記者として働いていました。

特に私に強い印象を残したのはレジスタンス集団の中のジプシーのおばあちゃんでした。

白髪を後ろで束ねて三つ編みにしたコロンと太目のおばあちゃんは、長いスカートのまま横座りで馬に乗り、敵の中に切り込みながら手榴弾のピンを口で抜き、敵陣へ投げていました。その勇ましい姿に、私はすっかり夢中になっていました。

乗馬への思いは募るものの、現実には縁のないまま、時は過ぎていました。

ところが3年前のある日、親しい獣医さんに誘われて、乗馬クラブに行く機会がありました。

そこで乗馬を楽しむ人々を目にした時、私の頭の奥底に押し込めていた馬に乗ったローレンスやジプシーのおばさんの姿が一挙に蘇ったのです。

そして、その日のうちに乗馬クラブに入会してしまいました。

 

しかし、震災で乗馬に行く気力もなくなり、しばらくお休みしてしまいました。

最近になってようやく気持ちも落ち着いたので、また乗馬を再開しようと、震災前に乗っていたミューちゃんに逢いに行きました。

1年ぶりにミューちゃんの背中に跨ると、私のことを覚えていたかのように、スタスタと歩き始めたのでした。私はそんなミューちゃんが愛おしくなり、思わずミューちゃんの首をやさしく撫でて、「ヨシヨシ!」と声を掛けました。

仙台の乗馬クラブの中には、津波で流された乗馬クラブもありました。そこでは、馬も流されて何頭も犠牲になっていますし、中には泳いで高速道路の上に逃げて助かった馬もいました。

そんな悲しい出来事が嘘のように思える今の乗馬クラブ・・・私は震災の惨事を思い浮かべながら、ミューちゃんの可愛い目を覗き込んでいました。

ハナミズキ

2012年5月27日 20:20

DCIM0009.jpgいつの頃からか日本でも春になると、あちこちでハナミズキの白やピンクの花が目に付くようになりました。

私がハナミズキを初めて目にしたのは、1969年に渡ったアメリカのフィラデルフィアでした。

ちょうど日本の桜のように、アメリカの人々に春が来たことを教えてくれる花でした。

ハナミズキの花は、桜と同じように白やピンクの花を木いっぱいに咲かせ、遠くから見ると白やピンクの小山が並んでいるように見えました。

ハナミズキの花びらには特徴があり、ちょうど犬の耳のように捲れたような形になっています。

そのため英語では、ドッグウッドと呼んでいました。

ハナミズキは、花びらが散ってしまうと、その後には柔らかい緑の若芽が一斉に出始め、みるみるうちに若葉に覆われていきます。

この若葉の季節は、フィラデルフィアも日本の梅雨のように比較的、雨の多い時期で、雨にぬれたハナミズキの若葉色が、木の下を通る人に映り、顔も、手も皆、鮮やかな若草色に染まっていました。

そんな何もかもが黄緑色になる様子の方が私には幻想的で、花の美しさ以上に強く印象に残っています。

 

私の住んでいたフィラデルフィアは、アメリカ独立宣言が議会で行われた場所で、その時に鳴らした「自由の鐘」がひびの入ったまま飾られており、観光地として多くの人々が集まるアメリカでは最も古い町です。

そんな所ですから、近くには南北戦争の古戦場があちこちにありました。その中でも、最も激戦が繰り広げられたことで有名なバレーフォージは、今は大きな公園として管理されており、週末になると人々で賑わっていました。

バレーフォージには古戦場らしく、当時使われていた大砲があちこちに置かれていました。(もちろんその大砲は使えませんが・・・。)

私は子供と一緒に公園を訪れると、その大砲に跨がせたりして遊んでいました。

バレーフォージでは、人々はサンドウィッチを頬張りながらお喋りしたり、フリスビーに興じたり・・・陽が傾くまで思い思いのスタイルで、満開のピンクや白のドッグウッドの花の下で春を楽しんでいました。

そんなアメリカでの日々を、ハナミズキの花を見る度に思い出して、私は感傷的になっています。

 

暖かいっていいなぁ・・・

2012年4月17日 23:17

2012041913390000.jpg長かった冬ともようやくお別れかな・・・と思うような暖かい日曜日の朝。

私は久しぶりの春らしい陽射しに嬉しくなって、ベッド脇の観葉植物に日光浴を思いつき、鉢をベランダに出し、ついでに部屋の中を少し片付けてみたりしました。

この日はそんな気分になるくらい、気持ちの良い朝でした。

先週、昔の仲間からの誘いで出かけた東京では、桜が満開を過ぎ、すでに散り始めていました。桜の名所の千鳥ケ淵の川面には、ピンクの花びらのカーペットが敷き詰められていて、その近くをタクシーで通りながら、私は思わず「ワー綺麗~」と声をあげていました。

今日の暖かさで、仙台の桜も一挙に開花に向けて前進するのは間違いないでしょう。

 

 

さて、4月に入ってから、私の生活は大きく変りました。

今までの労災病院での検診医の仕事の他に、企業での医師としての勤務も始めました。

大きな企業において、災害や企業内での事故の発生、インフルエンザなどの感染症の大流行など、様々な原因によって発生する従業員の健康状態の悪化が及ぼす影響は大きくなると考えられます。

それによって起こる業務の停滞や生産性の低下を招かないために必要な「予防」と「健康管理」を行う産業医に以前から興味を持っていました。

夏には九州の産業医大で集中研修に参加し、これまでの国や自治体での役人としての危機管理の経験を生かしつつ医師として、企業の危機管理のひとつである「職員の健康管理」をしっかりと勉強してきます。

今はまだ周りの状況が見えずにいますが、一日も早く環境に馴染み、働く人々の支援や企業に役立つことができるように・・・と思っています。

そんな訳で、以前とは少し違った環境で時間を過ごしたせいか、先週は少し疲れて早く家に帰っていました。家でのんびり過ごす私の横に愛犬たちは大喜びで寄ってきていました。

 

仕事の変化が私の気持ちにまで影響し、何となく落ち着かない毎日を過ごしてきました。そのお陰でブログも滞りがちになり、「変化」は気持ちを不安定にする・・・と痛感した数ヶ月でした。

星占い

2012年3月27日 21:33

illust2143_thumb.gif雪の降る新潟から東京そして仙台へと、いつものように地方巡業をこなしついでに、3月17日に卒園した孫の詩織の顔を見ようと、東京で2日間を過ごしました。

このような季節の変わり目には、気温の変化はもちろんのこと、季節の地域差は一段と大きく、仙台~新潟~東京と動くと、その変化についていくのが大変です。

仙台はまだ寒くて毛皮ライニング付きのコートを着て出てきた私も、そのスタイルで東京の街を歩くのには少し気がひけてしまいました。

でも、東京は意外と人目を気にしなくとも大丈夫なのです。いろんな人がいる上に、あまり人のことに興味を持たないので、少しくらい人と違っていても気にはなりません。でもさすがに気温が高くなると、厚着をしていた私は汗をかきながら歩くことになってしまいました。

やはり東京は、新潟や仙台よりも春が早く訪れます。街の中の植え込みには若草が伸び、桜の芽も膨らんでいました。

 

久しぶりの孫との朝の時間・・・いつもなら母親に追い立てられるように朝ごはんを食べて保育園へ出かけて行く孫も、その日は私と一緒なのでのんびりです。

いつものように、これらから着て出かける洋服一式を床に並べて、一つ一つ身に付け始めました。

その傍らで身支度していた私は、彼女の準備が進まなくなったのを見て、慌てて声をかけました。

「早く仕度しないと遅刻だよ。」

「大丈夫だよ。私はね毎日この星座占いを見てから保育園に行くんだよ。」

6歳の子供が星座占いを見る・・・その言葉に驚いて、詩織の顔を見ていました。

詩織は、「ああ今日の山羊座は最低。おばあちゃんのうお座も10位だし、ママのさそり座も11位だ・・・今日は3人とも駄目だね。」と言うと、最後の靴下を履き、玄関に向って行きました。

 

夕方、保育園に迎えに行った私は、こっそりと詩織に聞きました。

「今日は1日どうだった?星占いどおりだった?」

「フーン・・・やっぱり最低だった。やなことばっかり・・・。」

その言い方に私は思わず笑ってしまいました。

3月11日

2012年3月18日 15:02

今年もあの日はやってきました。

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3月11日になったら、私には絶対にやりたいことがありました。

それは、昨年と同じように、近所の喫茶店「木綿茶屋」に行って、あの日、私が座っていた席に座り、パソコンを広げて、あの日と同じように地震が来た時間を過ごしたいと思っていました。

その理由は・・・、ただそうせずにはいられない思いが、その日が近づくにつれて、私の胸の中に膨らんできたのです。

私の心の中に、「あの一年の時間をなかったことにしたい・・・」という強い思いがあったのでしょう。同じ場所で過ごすことで振り出しに戻りたかったのです。きっと・・・。

 

同じ席に座り、私はしばらく目を閉じていました。

私の脳裏には、あの日の光景がしっかりと蘇ってきました。

あの日、私は席に座ってコーヒーを飲んでいました。飲み終わった頃、携帯の地震警報のけたたましい音が鳴りました。それがあの日の始まりでした。そして、強い地震。

私はあまりの揺れの大きさに、椅子から立ち上がってはみたものの動けないまま、呆然として立ち尽くしてました。

私はその場に立ち尽くしながら、私の身の回りの全てはもちろん、今この地球全体がガタガタと音を立てて揺れている・・・と感じていました。

テーブルの上の水の入ったコップやコーヒー茶碗が、テーブルから飛び、床に転がりました。

横の壁の本棚からは、雑誌や漫画本が音を立てて崩れてきました。

私は少しもおさまる様子のない揺れに、落ちてくるものから身を守ろうと床にどっかりとお尻をつき、テーブルの下に入り込み、揺れが止まるのを待ちました。

 

大きな地震が一段落した頃、ふと我に返り、喫茶店の外に目をやりました。

四番町通りのアスファルトは波打ち、多くの人は道に出て、余震が来るたびに、悲鳴を上げて右往左往していました。

その時の私は、今、何が起こったのかさえ理解できないくらい混乱していましたが、とにかく家に戻ろうと、店を後にし自宅へと向かいました。

非常階段で12階の自宅まで戻り、部屋に入ってみると、案の定、落ちてきた本屋や食器などが散乱していました。私の姿を見た愛犬のユキがその中をピョンピョンと飛び跳ねてきましたが、もう1匹チワワのファービーの姿が見当たりません!

絶え間なくやっている余震の中、崩れた家具や家財道具の中を懐中電灯片手に懸命に探しました。

夜の10時を過ぎた頃になってようやく、クローゼットの中の箱の陰でプルプル震えているファービーを見つけ、慌ててそこから連れ出し、その晩は2匹と一緒に、私のベットの上で過ごしました。

 

私はこの地震で、家具やテレビ、食器などが壊れてしまったけれども、幸い大きな被害は受けませんでした。ただ、私の気持ちだけは、あの日で止まったまま、少しも進めずにこの1年を過ごしてきました。

地震であれだけガタガタになっていた北四番通りも、今では何回かの舗装を重ね、人も車も何不自由なく通り、もうすっかり日常を取り戻しているのに・・・。

 

新しい春を迎え、仕事でも新たな道を歩き始めようとしている私には、この1年を清算する必要があったのです。

だから、私は1年前と同じように、「木綿茶屋」のあの席で、その時間を迎えました。

地震発生のその時刻、私は静かに目を閉じ、涙が自然と溢れてきました。

 

そして、私は自分に、「さあ、再出発!」と号令をかけました。

雪国

2012年1月28日 09:31

日本列島が猛烈な寒気に包まれ、冷凍庫の中で生活しているようなこの数日です。

東京でも雪が降り、車は立ち往生するし、スリップ事故は起こすし・・・1,000人位が滑って転んでケガをしたことがテレビなどで報じられていました。

仙台でも確かに雪は降りましたが、大きく交通に影響するほどには至っていません。

この吹雪の最中、私は1月25日から用事で新潟へ行きました。

駅を降りるとしんしんと降る雪・・・。雪国育ちの私は久しぶりに興奮してしまいました。その中にしばらくフードも被らずに立ち、新潟を離れて忘れかけていた時折吹雪く雪の冷たい感触を味わっていました。

町の遠い空が赤くなっています。

雪がしんしんと降る日にはいつも見える雪国の光景です。細かい雪にネオンや街の明かりが散乱して赤く見えるのです。私は久しぶりにその空を見ながら嬉しくなっていました。

時々、私が行く三条の町は、隣の燕市とともに金物の町として有名です。

燕市では洋食器を、三条では金物の町工場があり、日本一社長の多い町として有名な地域でした。

小さな町工場でも社長は社長です。

そんな町工場が三条、燕の町を支え、夜の街も以前はとても賑やかでした。

ところが時代と共に産業も変り、今はなくなった会社も少なくありません。

しかし、私は三条に来るたびに、町工場を支えてきた人々の心意気をいつも感じるのです。

地味にコツコツと雪に埋もれて仕事をする根気強さ、忍耐強さがまだ、三条や燕には感じるのです。

新幹線で燕三条駅に降り立つ人々にはスーツ姿の若い男性や、外人も結構見かけるようになりました。そんな様子を見るたびに、まだまだ日本は捨てたものではないと言う気がします。

 

翌日は朝から雪はすっかり上がり、青空で、昨夜降った雪が眩しく光っていました。

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新しい年に・・・

2012年1月 7日 21:15

新しい年が、素晴らしい、平穏な年でありますように・・・そんな祈りと共に、

災害のないことの喜びを痛感しながら明けた新年でした。

「安らかな一年でありますように」などと真面目にお祈りしたのは初めてでしょう。

いつもなら、「皆が無事に過ごせますように・・・」と何となく程度でしたが、

安全への思いは強かったですね。

 

私は年末から年始を東京の娘夫妻、孫と過ごしました。

このところ年末年始は娘の元で新年を迎え、近くの氷川神社に初参りに

行くのが恒例になっています。

東京のお正月は寒くないし穏やかで、でも、池袋本町の氷川神社でのお

参りの最中に、大きめの地震がありました。

境内では、私一人が「地震だ~!」と身構えていました。しかし、近くにいた

他の人々は、聞こえた地鳴りも揺れもあまり意識していないようでした。

2日にはごった返す東京駅を出て、仙台に戻りました。

帰りの新幹線の中で、雪化粧をした福島の山々をボンヤリ見ながら、

震災を理由にサボってきた自分を反省していました。

 

4日から仕事は始まり、労災病院を皮切りに、午後にはいつものように

新潟三条の病院に行きました。

予想外に三条では雪は少なく、駅を降りた私は拍子抜けしてしまいました。

でも時々襲ってくる吹雪は私が新潟に住んでいた頃と同じでした。

さすが三条です。

診察が終わった患者さんにかける言葉は、「雪道、滑らないように気をつけてね。」

私は10年以上前の新潟での医者時代を思い出していました。

 

あまり良い雪景色は三条では撮れませんでしたが、三条駅で見えた

新幹線の除雪のために噴出している地下水シャワーの様子を写真に

収めてきました。

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   2012010512460000.jpgのサムネール画像三条の病院から見た風景

我が家のクリスマス点灯

2011年12月 1日 21:31

バタバタしているうちにもう12月です。

私は先日、名古屋での講演の帰りに夜の定禅寺通りを久しぶりに通りました。

定禅寺通りにはクレーン車が出て、けやきの樹にイルミネーションを取り付けていました。

一部では試験点灯も行われていました。

「ああ、クリスマス。そんな季節なんだな~」と、震災以来、時間の観念が希薄になっていた私はハッと我に返ったような気がしました。

 

私は家に着くとすぐに倉庫からクリスマスツリーの包みを取り出し居間に広げました。

そして旅行カバンも放りだしたままツリーを組み立て始めました。

ほぼ完成したところで冷蔵庫から缶ビール。

飲みながら、我が家のクリスマスツリーの試験点灯です。

ユキとファービーは少しビックリしたように、私とイルミネーションがキラキラするクリスマスツリーを交互に眺めていました。

そんな2匹の愛犬の姿を見ていた私は、震災の日を思い浮かべていました。

あの日のこの居間はどんな風だったんだろうか。

近所で仕事をしていた私は、地震直後に2匹の愛犬たちを案じ非常階段を12階まで駆け上りました。

ドアを開けると、入り口から倒れた洋服掛け、犬たちのお散歩用の乳母車、玄関の壁に掛けられた大きな絵、それらが私の行く手を塞ぎ中の様子は見えませんでした。

靴のまま部屋に入り、散らばった家具や皿、倒れたテレビなどの中を走っているユキを見つけと時にはとりあえずホッとしました。

ところがファービーが見つからないのです。地震で開いたクローゼットの奥深くの帽子の空箱の陰でプルプル震えているのを見つけたのは夜中のことでした。

あの大きな揺れの中で安全な場所を探して逃げた2匹。

2匹の無事が分かった時に思わず涙が出たことをクリスマスツリーを見ながら思い出していました。

地震への恐怖心でユキもファービーもその後も時々襲ってくる余震では、まず自分達の安全な場所へ駆け込むことを覚えました。しかし、震災後8ヶ月も経つと、その恐怖も薄らいだのか、少しくらいの揺れでは動かなくなりました。

時間というものは何でも薄めるのですね。

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シニッカさん

2011年11月 6日 21:53

何年ぶりかでフィンランドのオウルの歯科医のシニッカさんと、仙台のホテルのコーヒーショップで会いました。

今回の彼女の仙台訪問は、仙台と姉妹都市であるフィンランドのオウル市の副市長としての表敬訪問でした。

私がホテルのコーヒーショップの入り口で彼女を待っていると、少しふっくらとして貫禄がついたシニッカさんがニコニコして現れました。

彼女がオウルの副市長になったことは、偶然、新幹線の中で逢ったフィンランド大使館の人から聞いていましたが、彼女は少しも変わっていませんでした。

以前、彼女はフォンランド大使館から仙台の水の森のフィンランド協会の施設の館長として派遣されていました。

私が仙台で副市長をしていた当時、私は福祉先進国のフィンランドに興味を持ち、何度か彼女の施設を訪ねたことがありました。彼女とはそこで友人になり、その上、後日お互い同じマンションに住んでいることがわかり、彼女の在仙中には時々一緒にご飯を食べたりしていました。

しかし、私が仙台市の行政を離れて以来、すっかり疎遠になっていました。

縁とは奇妙なもの、たまたま、私が1年位前から所属しているZontaクラブの会に、シニッカさんが仙台市訪問に合わせてメンバーに会いたいとの連絡が入りました。

彼女は以前にオウル・ゾンタクラブの人を連れて、仙台のゾンタクラブを訪問したことがあり、今回は仙台を訪れたついでに、ゾンタクラブ会員の震災見舞いに仙台ゾンタクラブを訪問したものでした。

私はゾンタクラブのメンバーになって日も浅いため、クラブがシニッカさんと交流があることを全く知りませんでした。

それがたまたまゾンタクラブの例会で、シニッカさんが仙台ゾンタを訪れることを知り、シニッカさんを知っていた私はビックリしてしまいました。

もちろんシニッカさんもホテルのコーヒーショップでゾンタクラブのメンバーと一緒に私が待っていることは知りませんでした。

出迎えた私にシニッカさんはビックリ!顔を見るなり、懐かしくなって2人で抱き合ってしまいました。

皆でコーヒーを飲みながら、私がオウルを訪問の時のトラブルをメンバーに話し始めました。

シニッカさんは相槌を打ちながらニコニコしていました。

オウルを訪問した時、私の荷物が行方不明になってオウルに着かなかったのです。

何もない私はシニッカさんと近くのデパートに駆け込み、その夜のパーティーで着る洋服から洗面具など買うことになってしまいました。

8月の終わりでも北極に近いオウルは夜8時でもまだ明るく、そんな薄暮の中でパーティーが開かれました。夏といえども北国なので気温はすでに低く、急ごしらえで買い求めた安いパーティードレスでは肌寒くてショールが必要でした。

結局、私の荷物はそのままの中身で1ヵ月後に私の手元には戻りました。何も役に立たないまま、シャルルドゴール空港で迷っていたようでした。

シニッカさんとはあまり時間がなく、メンバーたちと慌しく地震や津波の話しをして別れました。

人との出会いは、不思議です。

私は今まで地球上のいろんな所で生きてきましたし旅をして来ました。

でもいつも思うことは「一期一会」。

私はふとオウルでシニッカさんとオーロラを見に行くと約束したことを思い出していました。

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日曜の朝は

2011年10月 2日 22:53

日曜日の朝は、概ねボーっとした頭を少しでも早くスッキリさせようと、お風呂を沸かし、熱めのお湯にユックリと入ることにしています。

お風呂の中では、まず土曜日の夜の飲みすぎを反省し、そして次に、先週を振り返り、出先での約束事などを思い出した上で今週の予定をぼんやりと考えるのです。

そうしているうちに頭と体が目を覚まし日曜の行動開始です。

今朝もいつもの日曜日の朝同様、お風呂から出て後は可愛い愛犬たちにヨーグルトと朝ごはんの用意です。このところ愛犬の朝ご飯は結構難しいのです。

それはユキ(ビションフリーゼ)が太めになり、そのために心臓に負担がかかっていると言われ、大好きなユキのことを案じてドッグフードの量を減らし、その上にキャベツを山盛り足してダイエット食を作りました。それから、ファービーの餌をユキが食べないように監視しなければなりません。

食べたがるユキを見ると餌を足してあげたくなりますが、心を鬼にしてユキを抱き上げたりして、ユキの気持ちを逸らすことに勤めました。

恒例の朝の一仕事が終わり、ベランダに出て深呼吸をしていると、どこからともなく金木犀の香りが漂ってきました。

この香りはマンションの玄関の植え込みの金木犀の匂いに違いありません。

今年もあの金木犀が咲いたのだな・・・と思いながら、その香りにつられて、私は久しぶりに2匹の我が子達と散歩に出かけました。

家の周辺には金木犀だけでなく、紫式部の花、彼岸花もミズヒキ草の赤い花・・・多くの花々が秋を謳歌していました。

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鯖の缶詰

2011年9月25日 18:36

2011092410020000.jpg昨日、自宅近くのパンケーキ屋さんでランチをしました。

食べ終わりレジに行くと、その横に缶詰が積まれていました。

 缶詰にはラベルはなく、一部には錆びているものもありました。手に取りよく見てみると、所々に黒っぽいヘドロの名残が付いていてすぐに被災地から運ばれてきたものに違いないとわかりました。

お店の女主人は、「石巻の人に協力したくてお店に並べているの・・・。」と教えてくれました。

私は秋刀魚の煮たもの、鯖の味噌煮、秋刀魚のつみれなど10缶ほど買いました。帰ってきて、早速、東京の娘のところへ他の荷物と一緒に3個入れて送りました。

ちょうどアメリカの友人に送るものがあったので、私はその中にも2つだけ入れることにしました。

きっとビックリするかもしれませんが、もちろんこの缶詰の経緯は丁寧に英語で書いて同封します。

震災は私たちの価値観や人生観など全てを変えました。

人は一人では生きてゆけないことも教えてくれました。

わずかでも、私達に被災地を助けることが出来れば・・・と思いながら、夕飯に缶詰の鯖の水煮を開けました。

 

あれから半年・・・

2011年9月20日 22:17

早いもので、あの3.11から半年が過ぎました。しかも、その半年目が奇しくもアメリカでの同時多発テロ発生の9.11と同じ日なんて、何か因縁を感じてしまいます。

まるで映画の一場面を見ているような、あの悪夢のようなアメリカでの事件から10年目も経っていたのですね。

10年前のあの日、私は秋田にいました。秋田県主催の講演会があり講師として呼ばれていました。講演終了後に懇親会を終えてホテルの自室に戻りスイッチを入れたテレビに映っていたのがあの惨事でした。ビンラディンの率いるテロリスト達の想像も出来ない方法でのテロ。アメリカの象徴でもあるワールドトレードセンタービルや国防省に旅客機をハイジャックして突っ込むなんて・・・。

自他ともに世界でナンバーワンのアメリカにとってはすっかりプライドをへし折られ、そこから必要以上の防衛に向かい、敵と思われる全てを潰すことで威信を保とうとしてきたような気がします。

アメリカで起きたこの事件が世界に与えた影響は大きく、これをきっかけにこの10年で世界は大きく変わりました。

今回の東日本大震災も間違いなく世界に大きな影響を与えることになるでしょう。

実際、被災地では震災から半年経った今でも復興は儘ならず、震災の検証なんてする余裕はありません。

しかし、被災した私たち日本人が学んだことはたくさんあります。

すでにそれらは、災害対策だけでなく、都市計画、エネルギー政策などに大きな影響を与え始めています。

私たちはこの震災で改めて「自然」の莫大なエネルギーと威力を身を持って体験したのです。だからこそ1人でも多くの人々に自然の力の凄さ、恐ろしさを伝えることが可能なのです。

震災以降、私は講演で出かける機会があると、必ず震災の話しを入れることにしています。その話しの中では、恐怖の体験の話しはもちろんですが、自然の威力の偉大なことを話すことにしています。

そして、いつも「是非、被災地を見て下さい。まだ津波の傷跡は残っていますから・・・。そして、自然の力の大きさを実感してください。」と付け加えることにしています。

もちろん、「被災した人々は、この天災を恨むことなく、試練として乗り越えようとしています。」と伝えることも忘れません。

先日、梅田川の川岸の土手を福住の町内会の人たちと歩きました。半年経った今でも、梅田川には津波が溯上して運ばれてきた土砂や木の枝などが見られます。津波は七北川を上り梅田川にまで来たのです。

       
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中高年の修学旅行

2011年9月 3日 18:59

8月の最後の週末に仙台の仲間と佐渡を訪ねました。

そもそも「佐渡行き」が決まった経緯は、「佐渡には“薪能”があるらしいけど観てみたいね。」と、仲良しの外科の先生がお酒の席で私に切り出したのがきっかけでした。そして、この旅行の世話役を私が新潟にいた頃の患者さんの息子さんにお願いし、私たちの希望を入れたスケジュールで中高年の修学旅行が決まりました。

新潟から佐渡の両津港まではジェットフォイルで1時間。信濃川の河口の佐渡汽船乗り場を出て一路私達は佐渡に向いました。

佐渡は私が新潟の住人だった頃には、自宅の裏の海岸に行けばいつでも目に入る身近な島でした。しかし、意外に佐渡を訪れる機会はなく、たまに外国からのお客様の案内役で同行する程度でした。

その時には決まって外人のお客達から「恵美子、佐渡には何か特別なものがあるの?」と聞かれるので、私は「日本の裏庭(バックヤード)が見えるよ。」と答えることにしていました。

佐渡には鉄道も大きな産業もなく、若者は仕事を求め島外に出ていき、残された島民は小規模の農業、漁業や夏場の観光で生きている島でした。そんな島だからこそ、農業などは機械を使わない昔からの農法が展開されていました。そんな訳で、佐渡には既に消えてしまった日本の原風景がひっそりと残っており、それはまるで日本の裏庭のような気がした私は海外からのお客様にそう表現していました。

2日目の夜、私たちは八幡の田舎の羽黒神社の小さな能舞台で演じられる薪能を見に行きました。佐渡は親鸞聖人など歴史上の高名な人々の流刑地であったことから、彼らによって多くの京文化が佐渡ヶ島に運ばれてきました。その名残が今も島の中に多く見られ、そのうちのひとつがこの能舞台だったのです。この小さい島の中に、豪華ではないけれども30以上の能舞台があるのですから、佐渡は凄い島なのです。

夕闇の中で薪にともされ、神主さんによる神事によって薪能が始まりましたが、この神主さんの様子がどうもおかしいのです。

袴が何か腰よりも下に結ばれていてだらしなく見えるな・・・と思っていたら、案の定、祝詞を読んでいる間に緩んで袴はどんどん下がっていくので、それを片手で抑えながら袖に一旦引っ込んで紐を締めて出直しです。ところが今度は片袖が外れていました。

その上、神主さんが後ろに下がって椅子に腰を下ろろそうとした時に椅子が倒れ、一緒に後ろにひっくり返ってしまったのです。

見ていた人々は笑いを堪えるのに必死・・・・クスクス・・・・ハハハハ・・・笑い声がざわめきのように辺りに広がりました。

佐渡在住の友人は、佐渡では神主さんが少ないのであちこち掛けもちで、この神主さんは「薪能」で声を掛けられていることを忘れて晩酌を始めてしまい、そんな状況で呼ばれて来たらしい・・・と教えてくれました。

そんな神主さんによる“ドリフターズのドタバタ“のような神事が終わり、無事、能「井筒」が上演されました。

何ともおおらかで滑稽な薪能の始まりでしたが、蚊に刺されながら、素朴な幽玄を堪能することが出来た佐渡の夏の夜でした。

帰路は満点の星空を見上げながら、おかしかった神主さんを思い出し、皆で笑いながら宿に戻りました。

 
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今夏の暑さと異常気象

2011年8月15日 21:43

「今年の夏の暑さや異常気象は何?」

私と同じようにそう思っている方はきっと多いと思います。

お盆に近い水曜日の夕方、私はいつものように新幹線で仙台から大宮へ、そこで東北新幹線から上越新幹線に乗り換えて、燕三条に向いました。

清水トンネルを過ぎると、そこは雪国ならぬ雨が降りしきる越後の山並みが続いていました。新潟の天気は雨、それが長岡に近づくといっそう強くなり、その大きな雨粒が新幹線の車体に叩きつけられていました。

私は窓に音をたててぶつかる雨粒を見ながら、「傘は持っていないしどうしようか?」と、ぼんやり考えていました。

三条に近づくにつれ雨は小ぶりになり、目の前には綺麗な虹が見え始めました。

三条駅に降り立った時には、入道雲がモクモクと湧いてはいるものの空にはギラギラした陽が高く地面を焦がすように輝き、ムーンとした暑い熱気の中でヒグラシが大合唱していました。まったく雨が降った気配も降る気配もありませんでした。

しかし、すぐ西隣の先ほど通過してきた大雨の長岡の上には、気味悪いような灰色の雲が低く立ちこめていました。

先日の仙台でもそうでしたが、この頃の日本ではあちこちで、狭い地域の一部で大量の大雨が降ったり、雷がなったり、そうかと思うと青空が見えたりと、さまざまな空模様が見られているような気がします。

先日の集中豪雨ではまた五十嵐川の堤防が決壊し、三条の町のあちこちに被害が出ました。それは、上流の下田村(今は三条市になっていますが。)にある水力発電用のダムが、豪雨によって水嵩が増し決壊寸前になったために放流せざるをえなくなり、その結果、五十嵐川の水量が増えたために起こったものです。

幸い7年前の氾濫箇所は護岸工事の結果、今回は何とか持ちこたえましたが、手を加えてない箇所の堤防が決壊してしまいました。また、補強したとは言え、水は堤防のギリギリまで増えやはり市内は再び水に浸かってしまいました。

駅からタクシーで病院へ向う途中で、私は未だ残る洪水被害の後を目の当たりにしました。いつもなら青々としていた五十嵐川の河川敷の畑や果樹園はすっかり消え土砂で埋まっていました。

私はその光景を見ながら、3月11日の津波の後の仙台の海外沿いで目にした風景を思い出し胸を痛くしていました。

いつから日本はこんなに災害の多い国になってしまったのでしょうか?

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洪水の後の三条の川岸

2011080714280001.jpgのサムネール画像仙台北四番丁の天気雨

「省エネ」?

2011年7月18日 10:04

電球.png梅雨が明けた途端に猛暑に襲われ、熱中症で病院に運ばれる人の話題が絶えません。

そんな中で、今、私達には電力の消費を抑えることが求められています。

家でも、会社でも、公共施設でも、商業施設でもエアコンの設定温度は高めに設定され、時には扇風機を併用するなどの工夫を凝らして暑さ対策。

街には省エネ家電が並び、もはや省エネは私達の生活の常識になっています。

 

こんな中で私は昔経験したアメリカでの生活をふと思い出していました。

アメリカに住み始めた頃には、家の中の薄暗さが気になって仕方がありませんでした。

日本とは違って、天井に組み込まれたライトのない部屋も多く、必要な場所にそれぞれスタンドライトを置き、それを必要に応じて使うのが普通です。

日本で蛍光灯で隅々まで煌々と照らす部屋の照明の中で生活していた私が、そのアメリカの照明が暗いと感じるのは無理もありません。

しかし、そんなアメリカでの生活に慣れれると、私もその暗さが心地よく、気持ちが休まることに気がついたのです。部屋全体ではなく、必要な所だけに灯りを置いて生活する・・・私達の生活の中では、何から何まで見えるよりも、少しくらいの埃も、顔の皺やシミも、ぼんやりして見える方がどんなに疲れないか・・・。

 

このところ日本でもこの省エネのムーブメントの中で、以前に比べるといろいろな施設やデパートなど至る所の照度が落とされ暗くなっています。

しかし、私達はあまり不都合は感じないですよね。

こんな動きを今だけに終わらずに、是非続けて欲しいものです。

 ただ、照明を暗くすることで、私にはひとつ気になることがあります。省エネのために街頭まで節電し、街灯が間引きされたり、照度が落とされたりした場合には、足元が見えずに歩く人がケガをしたり、犯罪などが起きやすくなったりする可能性もあり、とんでもない省エネになってしまいます。

何でもかんでも「省エネ」を・・・と考える前に、省エネにも順番をつけたり、程度を考えることは大切ですよね。言われたことは真面目に守る日本人も、何でもかんでも同じでなく、メリハリをつけることもこの際に学ぶ必要がありますよね。

東京通い

2011年7月 3日 13:19

震災の後遺症はいろんなところに現れています。

私のところでもテレビは買わなければならないし、トースターもパソコンも・・・。

そして、もう1つ「孫の子守」という仕事が増えました。

今までは散々東京へ行っても、土曜日に昼を食べる程度だった孫や娘夫婦たちでしたが、それが震災で私の出番ができたのです。

娘の主人が被災地に自治体の支援として国の役所から出張しなければならなくなったために、娘が1人で孫の保育園の送り迎えから何から何まで・・・という状態になってしまいました。それを少しでも助けるとの理由をつけて、私は孫の詩織との時間がもっと長く過ごせると、期待に胸を膨らませて週の後半の東京通いを始めました。

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孫との会話は楽しく、1人で犬達や時々飲み仲間と町に繰り出す程度の生活をしてきた私は、日常での人との会話が増え、東京での生活を楽しんでいます。

わずか2日程度の東京滞在ですが、その往復の時間のやりくり、他の仕事との調整など、面倒なことは確かにあります。遠距離の移動は私の年の体には堪えられない・・・と言ったら嘘になりますが、詩織との時間はそんなものを超えた何ものにも代えがたいものになっています。

木曜日には新潟での仕事もそこそこに(三条の病院には失礼していますが・・・)東京に行き、その足で詩織を保育園に迎えに行きます。

私は旅行カバンのキャリーを引きながら、保育園からの帰り道に詩織と交わす会話に満足しています。詩織は大人ぶって、私に帰り道を教え、どこで何を買うかなども教えてくれます。

それが何とも微笑ましくて、しばらく忘れていた小さな子供との時間を楽しんでいます。

母親1人の生活に詩織なりに頑張っている姿が見えて、健気で可哀相になることもあります。

今週は札幌での仕事が入って東京には行けずに、ションボリして三条を出てきました。

三条の行きつけの食堂の玄関には、私がかつて住んでいたパラグアイの国花の時計草咲いていました。

日本では珍しく、嬉しくなって写メを撮ってしまいました。

 

塩釜へ

2011年6月19日 09:33

また、ブログをサボってしまいました。すみません!

4月から新たに増えた労災病院での仕事、新潟での仕事、そして、その間に講演・・・そんなスケジュールに自分自身を上手く合わせられなくて、落ち着かずに失礼してしまいました。

以前はもう少し要領良かったと思うのですが、年ですかね~仕方がないですね。

今月の24日に久しぶりに塩釜に行ってきました。塩釜には本当は3月の末か4月始めに行くつもりにしていました。

私の検疫所所長時代に開催されたワールドカップ日韓大会(古いです・・・。)の時に一緒に危機管理を担当し、共に走った仲間の一人、塩釜消防のSさんがこの4月に署長になったお祝いを予定していたのでした。

塩釜へは震災後何度か行きました。しかし、消防は忙しいのではと訪問を遠慮して通り過ぎるだけでしたが、ようやく訪問を果たしました。

以前に塩釜に来たときには、家の前には瓦礫や泥にまみれた家財道具、畳などの山が積み上げられていました。私にとって何よりショックだったのは、その時すでに3か月以上経っていたにも関わらず塩釜のメインロードの信号機は消えたままで、交差点に警官が立ち交通整理をしていたことでした。

今回それはすっかりなくなってはいましたが、もちろん街にはまだ震災の跡はしっかり残っていました。

Sさんからは署長室で、震災当日やその後の混乱した日々の苦労話、塩釜消防の苦闘を教えてもらいました。

特に印象的だった話しは、車に乗って逃げる途中で津波に流され、その車の中から助けを求める電話が殺到し混乱した119番の様子など相手の話しを聞いているうちに切れてしまった数々の電話・・・津波で多くの人を亡くした塩釜での消防の苦悩を話してくれました。 

ただ、震災前から風前の灯だった塩釜の繁華街・尾島町には、隣の多賀城市のやはり津波で流された繁華街桜木から来て再開すると言う動きも出始めているという話を聞き、塩釜、多賀城で9年を過ごした私としては、少し嬉しくなって帰ってきました。

ふと空き地に目をやると、どくだみの可憐な白い花が群生してました。

いつの間にかそんな季節になっていたのですね。

 

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クロスビー

2011年6月 2日 22:25

私の好きなお店のひとつライブハウス「クロスビー」で、今回の東日本大震災のために、「Prey for Miyagi!Special Jazz Live」というライブがありました。
私がそこへ行くようになったのは、新年会の後に「もう一軒寄る?」と、ジャズの大好きなSさんに誘われたのがきっかけでした。
そのライブハウスは仙台のネオンの華やかな街国分町のビルの6階のコジンマリしたお店で、いつもは地元のバンドが演奏していました。
私がクロスビーを気に入ったのは、ライブで音楽が楽しめるのはもちろんですが、マスターの静かで音楽を楽しんでいる客の邪魔をしない・・・そんな配慮でした。
今回は被災した人々に元気をと、東京から来たメンバーが加わっての演奏が聴けるということで、久しぶりの音楽を楽しもうとSさんと出かけました。
早めにお店についてしまった私たちは、お店の入り口の外の椅子で開場を待っていました。
5分くらいたった頃、ビルの廊下の突き当たりのエレベーターのドアが開き、中から足元もおぼつかない老人が若い男性に手を取られて出てきました。
お客にしては派手な赤いタキシードを着た人だなと思っているうちにお店の中に消えていきました。
お店の中に入って私は驚きました。先ほどの老人は今日のピアニストでした。
バンドの仲間に支えられながらピアノまで進んだ彼は、早速、ピアノを弾き始めました。
その姿は別人のように矍鑠とし、ピアノのタッチも若者のように力強いのです。
目を閉じて演奏する彼の姿に私はしばらく見入ってしまいました。2曲の演奏が終わると、彼はマイクを握りメンバーの紹介から、このライブの経緯などについて話始めました。
店の一角の薄暗い舞台では、彼は老人ではなく、プロのジャズピアニストでした。
私は彼の演奏を聴きながら、自分の心の中に爽やかな風が流れるのを感じて嬉しくなっていました。

衣替え

2011年5月31日 09:46

やっとこの夏の衣替えをしました。 

震災後2ヶ月以上経つというのに、ここしばらく少しも前に

進めない自分に嫌気がさし始めていました。

誰も新しい道を私のために用意してくれないことは分かっ

ているのですが、なかなか動けずにいる自分・・・。

私は衣替えで気分転換を図ることにしました。

クローゼットの中の冬物をクリーニングに出すために袋に

詰め、空いた場所にハンガーに掛けた夏物を並べました。

そして、地震で水をやったり、日当たりに注意することがで

きないまま駄目にしてしまった鉢植えを震災のゴミと一緒

に処分してしまったためまた一から出直すつもりで、昨日

近くの花屋さんでアラレアという葉っぱだけの観葉植物を

買いました。

それをベッドの横に置いただけで

枕元にそよ風のような空気が生ま

れた気がして嬉しくなりました。

室浜にて・・・

2011年5月15日 11:10

2011050616430000.jpg3・11以来、2ヶ月近くが経とうとしているのに、まだまだ被災した人々への支援は十分とは言えません。

そんな中で、避難所で生活している人が、「行政の人から『自立しなければ』、と言われけれども・・・。」と、涙ながらに話してくれました。

彼らにはまだ自らの足で立つゆとりもないのに。

その話しを聞きながら、私は彼らの中の不安が時間と共に大きくなっているのを強く感じました。

 

避難所ごとに抱える事情は大きく違っています。

震災以前からその地域が持っていた問題が、震災を契機に劇的に大きくなったことも多くあります。

私は避難所を見ながら、被災地域毎に受ける支援が大きく異なることに、何か割り切れない思いをもって見て来ました。

メディアに取り上げられた地域には支援物質が消費しきれないくらい届き、かと思うと何も届かない場所もある現実。

それをどうしたら解消できるか良いアイディアはないでしょうか。

 

5月6日午後3時過ぎに、私は被災地でペットの保護をしている知り合いの獣医師の車で、被害の大きな地域の1つ東松島に行きました。

塩釜時代には、日曜日などの時間がある時に良く出かけた野蒜海岸、大高森、室浜、月浜。

松林の続いていた場所には、倒れた松の樹がゴロゴロ横たわり、海水浴に向う人が車で通っていた道は陥没し、流されてなくなっていました。

もうそこには私の知っている長閑な海岸はありませんでした。

室浜に着き、私は民宿の並んでいた町の中に足を踏み入れ、思わず立ちすくんでしまいました。

打ち砕かれた家々の壁、屋根が屋根の上に重なり、電信柱は根元から折れ、辺りに散乱しているものはそこで生活していた人の息遣いがそのまま感じられる生活用品や家具。

その光景の全ては、津波の威力の凄まじさそのものでした。

そして、その瓦礫となった町を異常な静寂が覆い尽くしていました。

 室浜の町を見下ろしながら、私はこの町で被災した若い女性と話しをしました。

彼女は飼犬の横で、「餌は津波で濡れてしまいペットシーツもないし、大勢の人がいる避難所にはペットを連れては行けないので、そこの小屋に住んでいるんですよ。」と話してくれました。

犬を連れて避難生活をした私にも彼女の気持ちが良くわかり、私は大きくうなずいていました。

彼女のところの犬は、ミニチュアダックスとシバのような雑種の2匹がリードに繋がれていました。2匹は人懐こく、尻尾を振って私に近づいてきました。犬が好きな私は、このような災害の中で、しっかりと面倒を見てくれる飼い主に恵まれた彼らは幸せと思って犬達を見ていました。

すっかり壊れた室浜の町の様子を見て、私は「ここでは犠牲者は?」と、彼女に尋ねました。

彼女は、「ここでは1人も犠牲者は出てないのですよ。」と初めて笑みを浮かべました。

「町では地震の後すぐに津波を想定しました。そこへ女川に津波がきたとの情報が入り、村では民宿のバスに高齢者を乗せ、高台の学校に向かいました。その後、元気な人たちはそろって高い所に逃げて助かったのです。」と、彼女は教えてくれました。

 地震イコール津波との発想、そして情報をいち早く受取り、ただちに避難を判断した村の人達の連携の素晴らしさを驚いて聞いていました。

「想定外」の大きさの津波には違いなかったけれども、それには冷静な町の人々の判断力が勝ったのです。

もう一度私は、室浜の瓦礫の山になった町に下りました。

その時、遠くから地鳴りが聞こえました。

地震に対して異常に敏感になっている私は、恐くなって高台の方に戻り、慌てて車のテレビをつけてみました。

地鳴りはやはり地震で、宮城沖で地震があったとの地震情報がラジオから流れていました。

不気味な地鳴りの音は、私の中にあの地震の恐怖を呼び起こしました。

ど根性タンポポ

2011年5月 8日 19:11

2011042914020000.jpg今年もゴールデンウィークが始まりました。

いつもならこの辺りで一呼吸・・・それが5月の連休だったはずが、今年は何となく力が入らないのです。

私だけでなく多くの人がそうかもしれませんが、何一つ始められていないからなのです。

それは、時々思い出したようにやって来る余震のためかもしれません。

今日は久しぶりに古くからの友人と会う約束をしていました。

彼女とは40年近く前にフィラデルフィアで会っていました。

彼女はアメリカ人でペンシルバニア大学の学生と結婚していて、フィラデルフィアに住んでいたのでした。

出会いは、たまたま子供を連れて近所の公園を訪れた時のことでした。

アメリカ生活に慣れていない私は、唯一知っている近くのクラークパークへ子供を連れて行き遊ばせるのが日課になっていました。

街中の公園には昼間は老人も来ていましたし、私のように子供を連れたお母さん達もいました。

そこで彼女はオシャマナ女の子を連れて遊ばせていたのです。

彼女も一人、私も一人で子連れ。そこで、「日本から?」と彼女から言葉を掛けられたことから、付き合いは始まったのでした。

彼女の方が、私より1年以上前にアメリカに来ていたことや、ご主人がアメリカ人ということもあり、フィラデルフィアのいろいろな情報を知っていました。

私は彼女から、生活や子育てのためのいろんな情報を教えてもらいました。

フィラデルフィアを離れ、私と彼女との交流は途絶えてしまいましたが、運命とは面白いもので、彼女と日本で、しかも仙台で再会したのでした。

昼過ぎに私は彼女を迎えに地下鉄の駅へ急ぎました。

彼女と会うのは1年ぶりかな・・・と考えながら歩いていると、交差点の向こう側で手を振る彼女の姿が見えました。久しぶりに見る彼女の頭には白いものが増えてました。

2人で時間が経つもの忘れて、お喋りを楽しみました。

まるでフィラデルフィアのウォールナッツ通りの彼女のアパートの一室で子供達の声を聞きながらお喋りをした時のように・・・。

あの時のオシャマナ京子ちゃんは一児の母、そして妹の直美ちゃんも、一緒に遊んでいた我が家の子供達3人も皆独り立ちしているのですから、「私達も年をとるわけね。」と、2人で笑いながら遠い日を思い出していました。

 

私自身も少しだけ日常が戻って来ています。ずっと以前から、家の片付けなどに来てくれていたおばさんが、また我が家に復帰し、犬たち(ユキとファービー)も大喜び。

私もようやく自分の居場所を取り戻し、おばさんの働く姿を感じながら仕事ができることに嬉しくなっていました。

彼女を送っての帰り道、可愛いタンポポが咲いていました。

北四番丁の角の街頭の根元にある歩道の敷石と街頭の柱の僅かな隙間に咲くこれは「ど根性たんぽぽ」?

地震その後・・・

2011年4月18日 21:47

あの3月11日の地震の後、極度の緊張感と先の見えない不安の中で私はうろたえるばかりでした。

そして何一つ書けずに時間だけが過ぎて行きました。

でも、今朝舞い込んできたメールに背中を押され、ようやく気を取り直してブログを書き始めました。

私は医者としてこの災害の中で何かしたいとずっと考えていました。

被災地域には高齢者が多く、衛生環境もそう簡単に改善しそうもないことや、少しも軽くならない緊張感のために精神共に疲労の限界に達しており、被災民の中でも特に高齢者は感染症に対して弱くなっていることから、製薬メーカーと交渉して肺炎球菌ワクチン接種を何とか実施できないかと思い始めていました。

私が訪れた仙台市の避難所では多くの人が咳をしていました。

インフルエンザだけでなく、高齢者では肺炎に罹り、重症化する人が多いのは、このような災害が起こらなくとも判っていたことですが、このような環境の中では、肉体的にも悪い影響は出ないはずはありません。瓦礫や津波によって運ばれたヘドロの中には乾燥して空中を舞うレジオネラのような細菌類もいるはず。

そんな意味でも高齢者の多い被災地域でこれ以上悲劇を起こさないためにも、肺炎球菌ワクチン接種は必要です。

そのために、日本医師会へのワクチン接種のための協力を依頼し、自治体の長にワクチンメーカーへの要請依頼をお願いする文を女医会として書こうと提案、その文章作成の役割が私に回ってきたのです。

そんなことで依頼文を書き始めると、私の中の書くモードにエンジンがかかったようでした。

ライフラインは4月7日の大きな余震の前には復帰し、あの余震の中でも途切れることはありませんでした。

あの大きな余震の日、私は震災以降、始めて我が家のお風呂に入り手足を伸ばしホッとしていたのでした。

それが一転・・・恐怖の揺れに絶叫していました。何しろ我が家はマンションの12階です。とうとう3月11日の地震で壊れずに残っていた食器もほとんどかけてしまいました。そして、ついにはテレビまで・・・。

この震災では命をなくされた方々、家をなくされた方々・・・そのような人達が一杯。それらの方々に比べたら私の苦しみなんてゴミみたいな話ですよね。

友人が撮った写真を少し紹介させていただきます。震災の後の津波での被害の大きさ・・・涙が出ます。  

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東北地方太平洋沖大地震

2011年3月30日 21:37

悪夢のようなあの日から、2週間以上の時間が過ぎてしまいました。

しかし、今の私には、あの恐怖の地震は昨日のことのようにしか思えないのです。

何か書かなくては・・・と思いながらも、何も出来ないまま時が経ってしまいました。

新しい日のために、私も歩き始めなければと思い書き始めました。

 

私はあの日いつものように、近くの喫茶店で締め切りの迫った原稿を書いていました。

その時、携帯電話の緊急地震速報のけたたましい警報が響きました。

「あら地震が来るわ・・・」 私のひとり言が終わらない内に足元が揺れ始めました。

経験したことのない激しい揺れ、喫茶店のテーブルの皿やコップが動き、それらが横から飛んできます。

その揺れはますます、激しくなるばかりでした。中には悲鳴を上げて道に飛び出す人も。

喫茶店の窓ガラスや壁は大きな音を立てて軋んでいます。壁の本棚の本は崩れて、店中に散らばりました。

それでも揺れは弱まる所か、ますます激しさを増し、立っていられなくなった私はどっかりと床に尻餅をついてしまいました。そして、そのまま、飛んでくるものや倒れる家具から身を守るために、テーブルの下に隠れて揺れが止まるのをただひたすら待ちました。

揺れが止まった時、私は家に残してきた愛犬が心配になり、通りの向かい側の我が家に急ぎました。

もちろん、停電している自宅のマンションの12階まで歩いてです。

家のドアを開けると、入り口から倒れた家具や物で中は見えません。その中へ靴のまま入り愛犬を探しました。

居間では、倒れて散らばったものの上をユキが元気に走り回っている姿が見えました。しかし、もう一匹のファービーが見つからないのです。

倒れた家具を元に戻し、机から落ちたパソコン、テレビ、本を元に戻し、棚から飛び出し壊れてしまった食器の破片を拾いながら、私は「ファービー・・・」と呼びながら探し続けました。

電気のない暗闇の中で、しかも続く大きな余震。私は夜を過ごす場を寝室と決めました。

懐中電灯、ろうそく、水など必要な物を持ち込み、ベッドの上にユキをとりあえず抱き上げ、再び懐中電灯を片手にファービーを探し始めました。

夜の10時頃、私は疲れ果てて、捜索を諦めかけていたその時、居間の奥のクローゼットのドアが開いるのに気がつきました。私は慌てて、懐中電灯で中を照らして覗いてみました。そこにはプルプル震えたファービーの大きな目が見えたのです。

私はすぐにファービーを抱き上げ、今夜の寝床になる私のベッドの上に連れて行きました。

続く余震、軋む建物・・・まんじりともせずに私達は、一晩を過ごしました。

 

電気のないその日、私は何一つ情報もなく、あの地震がどの位の大きさだったのか、地震の後に大きな津波が、多くの命、家、道を襲い、日本の半分の海岸の全てを奪い去っていたことなど、全く知りませんでした。

 

余震の頻発する中での12階での生活は無理と、私は犬と共に避難所に身を寄せました。一日一個のおにぎりの避難所生活・・・。私がいなければ他の人が食べられると私は新潟へ一時避難を決意しました。

私は新潟で自分を立て直し、5日後に電気と水が復帰した我が家に戻りました。

そして、家の中の食器の欠片やガラス片を拾い、壊れた家具を処分し、生活をする場所を整備しました。

そして、犬達と私は、時々襲ってくる余震に堪え、あの恐ろしい地震の体験者の同士として、ここでの生活の仕切りなおしを決めました。

東京では桜が開花したとテレビで報じられていました。

どんな天変地異が起ころうが、自然は着実に明日に向っているのです。

私達も明日に向かって行くしかないのですね。

 

断捨離

2011年3月 1日 21:46

2011022718240001.jpgこのところ「断捨離」と言う言葉をあちこちで見かけます。

私はこの「断捨離」を以前から少し気にかけてました。

それって、どんなことを意味しているのか・・・と。

それが偶然、旅の途中で買った雑誌の中に、この「断捨離」が取り上げられているのを発見し、じっくり読む機会がありました。

そのページにはカリスマ主婦のような40歳くらいの感じの良さそうな女性が、家庭の台所、居間など、さまざまな場所で「断捨離」を実施し、整理して生活しやすくなったと、写真入りで解説されていました。

そして、「断捨離」実施後、台所も居間も、まるでショウルームの部屋のように変身していました。写真には「こんな風に素敵に変身しますよ。」と、コメントが付いていました。

それを読みながら、無機質で生活感のない部屋での生活って、そんなに素敵なことかしら・・・と、私の心の中には、疑問符が幾つも並んでしまいました。

それだけでなく、少し嫌な気分になっていました。

確かに部屋は綺麗になったし、何もなくなっていましたが、部屋の中のものだけでなく、暖かさ、人の営みの息遣い、隙などまでなくなっていることが私には堪えられなかったのです。

100点満点主婦の鑑のような女性が片付けた部屋で、出したら、散らかしたら、直ぐ片付けて・・・それが自分の生活の中心になるなんて、きれいに整理された空間をキープすることが目的になるなんて・・・。

このページを読み進むと、不要のものを整理して、捨てることが人間関係にまで及んで書かれていた。

私は腹を立て、終に読むのを止めてしまいました。

 身の回りには捨てられない物が積み上げられた中で生きている私にとっては、「断捨離」は夢のような言葉に最初は聞こえましたが、この「断捨離」が物を整理してさっぱりするだけでなく、人間関係にまで使われるのを読んだ時、私はすっかり失望してしまいました。

役に立たない人間関係を整理し捨てる・・・・・これって、いかがなものか?

整理できずに汚くなっている部屋の中で生活している私は、部屋に人の温もりも感じられないよりは、そこに人の営みが見え、息遣いが感じられる部屋の方がやはり良いな・・・と、言い訳のように、思っていました。

男たちは・・・

2011年1月17日 23:11

年末年始を東京で過ごした私は、いつもより人が多く行き交う仙台駅に降り立ちました。

地下鉄に乗ろうと、駅の地下階から地下道に繋がるドアを開けようとした時、反対側からやってくる男性が私の目に入りました。

私は相手の男性を先に通してから自分が出ようと考え、ドア押さえたまま待っていました。

すると、向こう側から次々と人がやって来て、私の押さえたドアを平然と通り抜けて行ってしまったのです。

しかも、それが全部、男性だったから、私の堪忍袋も限界に・・・。

ついに切れてしまい、最後に通った人に向って、「図々しいわね!」と言ってしまいました。

しかし、その男性は、「誰に言っているのか・・・」と言う顔をして、平然と小走りに通り過ぎて行ってしまいました。

 あちこちの町や国で生活してきて、今この仙台に住むことを決断した私には、そんな人が仙台に多いとは思いたくないのです。

この仙台が好きだから、何だか哀しい年の初めでした。

そして、ひょっとしたら、この仙台では男性が大切にされて、やってもらうのは当然・・・なんて思っているのかも、と思ったりしていました。

男女問わず相手を思いやる優しい心の溢れる社会にしなければ。

「タイガーマスク運動」なども起きたりしているし、日本人も捨てたものではないですね。

ただ、忘れっぽいのが気になりますが・・・。

  

そんなちょっと嫌な年明けでしたが、1月11日に5歳になった孫の詩織から送られて来た写真にすっかり私は機嫌を直しています。

誕生日に何が欲しいかと尋ねた私に、「おばあちゃん、私お家が欲しいの。」

早速、私は「子供の家」とネットで探し、布製の家型のテントを発見して、詩織に贈りました。

でも母親の私の娘は、「叱られたり、拗ねたりすると自分の家に閉じこもっているよ。」と、少し不満そうに言ってました。

 

小沢征爾

2011年1月13日 00:15

 

食道がんの手術から帰還しての12月に開催されたニューヨークでの演奏会がテレビで放映されていました。

実は私は彼が1970年代にフィラデルフィア・オーケストラでゲスト指揮者として指揮棒を振っている姿に遭遇して以来のファンなのです。

その頃は彼も若かったし、再婚して間もない頃でした。

バルコニー(音楽ホールの2階の特等席)に奥さんを(入江美樹さん・モデル)座らせて、少し虚勢を張って演奏する姿に、私は最初首を傾げていましたが、それもすぐに消えてしまいました。

彼は必ず日本人の若手の音楽家、バイオリニストだったり、ピアニストだったりを連れてきて協演するのです。

私が彼を初めて見た日に連れてきたのは、パーカッションのツトム・山下で、現代音楽を一緒に演奏していました。

カーテンコールの時には、その新人音楽家を何度も聴衆の前に連れて行き、まるで背中を押すように全く知らないであろうフィラデルフィアの聴衆に丁寧に何度も紹介していました。

その後も、何度か彼の演奏会を聞きましたが、その光景はいつも変わりませんでした。

異国で同郷の人を支える彼の姿を見て、その頃アメリカでの生活に精一杯でゆとりのなかった私はとても励まされました。

日本人の中にもこんな温かい人がいる・・・と。

それ以来、私はすっかり彼のファンになったのでした。

フィラデルフィアに住んでいた私は、安い給料の中からフィラデルフィア・オーケストラのシーズンチケットを買い(もちろん安い席です。ファミリーサークル。)

当時はユウジン・オーマンディーの指揮での華やかなフィラデルフィアオーケストラの演奏を楽しみました。

特に管楽器に定評があり、オーマンディーはイタリアものが得意で、私はレスピーギの「ローマの松」などが大好きでした。

その頃、小沢征爾はボストンフィルの指揮者でしたが、時々フィラデルフィアに来ては指揮棒を振っていました。

ファミリーサークルの席は何年も同じ席を買うので、隣に座るおじさんとも友達になりました。

小沢征爾の演奏の日にはいつも、「嬉しいだろう。日本人が指揮するんだから・・・。」と私の耳元で囁いてくれました。

私はもちろん胸を張って、「誇りに思いま~す!」と答えていました。

病み上がりにもも関わらず力を込めて指揮する小沢征爾の姿をテレビで観ながら、そんな日を思い出していました。

 

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書き初め

2011年1月 3日 18:30

あけましておめでとうございます。

 新しい年が素晴らしい年でありますように・・・と祈りながらのブログ書初めです。

2011年も今日で3日目。

毎年、新しい年の初めには訳もなくクワクする期待感がありますね。

年を取るって肉体的には良いことがある筈はありません。

体力は無くなるし、皺は増えるし、記憶力は悪くなるし、挙げたらきりがないくらい。

でも、私はこの頃、年をとるのも捨てたものではないと思うのです。

私はしなくても良いような経験も含めて、今までいろいろな経験をしてきました。

それらには反省はあっても、後悔はありません。

なぜなら、その経験かなければ、私にはこんなに多くの人との出会いも、多くの人の温かい心や思いやりに巡り合うこともなかったと思うからです。

2011年も新しい出会いにドキドキしています。

 このところ、年末年始は私が上京して娘夫妻や孫と過ごすことになってしまっています。

それが私も娘一家もそれなりに心地よくなりつつあります。

そう思っているのは私だけかもしれませんが・・・。

この年越しも一緒にご馳走を食べ、その後に池袋の下町の銭湯に行きました。

この銭湯が全て昭和初期のままで、私はことのほかこの銭湯が気に入っています。

今では珍しい熱いお湯の銭湯で、池袋の下町の人間模様が見えて楽しいのです。

元旦は皆でお雑煮を食べて、すぐ近くの神社に初詣に行きました。

「素晴らしい1年になりますように・・・。」

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ユキちゃんの盗み食い事件!

2010年12月30日 23:21

2010122119560000.jpg大事件!またしてもやられてしまいました。ユキちゃんに・・・。

外出から戻ると、尻尾を振ったユキとファービーのお出迎え。

私はそんな彼らの頭を撫でながら居間に入りました。

そこには何やら紙くずが・・・。

いつものようにまたユキが、大好きなポケットティッシュをどこかから見つけてきて散らかしているかと思ったら、見たことのない紙。

取り上げてみると、オセンベイとクッキーの袋。

 「アッ!そうだあれだ・・・。」

昼過ぎに家にやって来たTさんが持ってきてくれたお土産だ。

机の上の端っこに置いていったビニール袋に入ったクッキー、オセンベイを盗み食い。

「ああ、私が味見もしないうちにユキが味見をした~!」

何よりも、「オセンベイのような味の濃いものを食べて大丈夫かな。」、「太り気味のユキがまた太ってしまう。」という心配。

 明日からユキには厳重なダイエットを実施。

おやつを減らして、走らせなければ。

おばさんから、「可愛いいから」ってもらっていたおやつも減らしてもらわなければ。

満腹になって満足して寝転んでいるユキでした。

師走

2010年12月25日 00:27

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今年もあとわずか・・・。

「師走」の言葉が表わすように、けれど師だけでなく12月は誰もが忙しく走っているように落ち着きません。

実際、私も毎日走っているような生活を送っています。

先週は市外での講演が2回もあり、岩沼、新潟と出歩いていました。

この時期は多くの人が出歩く機会が多いのか、新幹線では有名人と隣や前後に座ることもあり、そんな時の周りの人の反応が面白く、私は有名人に会ったことよりもそちらを楽しんでいました。

先週の木曜日(16日)は新潟行きの新幹線で「橋幸夫」、土曜日は新潟から帰る際に時の人「小沢一郎氏」に会いました。

橋幸夫が私の前に乗っていた時には、彼が新潟近くの三条で降りた後、私の後ろのおじちゃんとおばちゃんが慌ててその席に移動し、「こうやって橋幸夫が座っていた。」なんて言いながら、彼の温もりでも味わうかのように座っていました。

そして、橋幸夫だと知っていたのは自分達だけだと言わんばかりに、私に「橋幸夫が座って居たんだよ。知っていた?」と言ってニコニコしていました。

その姿がなんともほほえましくて、私も思わず笑ってしまいました。

旅ではこのようにのんびりした人にも会います。

日頃ピリピリして慌しい時間を送っている私は、そんな人達に心癒されることもあるのです。

新潟への旅は薬剤師会の講演のためでしたが、久しぶりに95歳の母親の顔を見て、そして家のすぐ裏の「関屋浜」、雪の降る万代橋を歩き、新潟を十分楽しんで帰ってきました。

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可愛い看護師の卵・・・頑張れ!

2010年12月21日 23:52

2010112421060000.jpg「さて、試験は終わったし・・・ブログを書く番だ。」

最近、何が忙しかったかと言えば、ちょっと講演が続いて、それに原稿の締め切りや看護学校の試験が重なっただけです。

看護学校の試験は、直前まで「自分が試験を受けるわけでないから楽だろうな・・・。」とそう思っていました。

ところが、実際には問題を作るのも非常に大変でした。

特に、私が教える「公衆衛生」という科目は、看護師を目指す彼女たちが卒業後に受けることになる国家試験を意識して作らなければいけないために随分気を遣いました。

難しすぎても良くないし、かといって国家試験とかけ離れてもいけない。

この数日はそれで頭を悩ましていました。

そんな日々も今日の試験終了とともに終わり、ようやくホッとして少し離れていたブログに頭を切り替えたところです。

看護の雑誌に毎月エッセイを載せてもらったり看護師とは縁の切れない私ですが、春から彼女たちと一緒に過ごした時間はいろいろ考えさせられることの多い時間でした。

これまでの私の経験から彼女たちには、同じ医療を担う者として技術や知識だけではなく、少しでも広い世界を知ってもらいたいという思いがあり、私が海外で経験した現実などを授業に入れながら講義をしてきました。

講義を始めたばかりの頃は反応がなくて物足りなく感じることもありましたが、授業も終わりに近づくにしたがって彼女たちのシャイな気持ちも理解できるようになり、時には「面白かったです。」と声を掛けてくれたりと良い生徒でした。

あとは国家試験!みんな頑張れ!

朝日新聞の取材を受けました

2010年12月 7日 20:17

 

2010年12月6日の朝日新聞宮城版に取材記事が掲載されました。

 

 

なぜ市長選に出馬したのかなどインタビュー形式で載っています。

 

 

新聞記事はこちら→  岩﨑先生 記事20101206.pdf

手帳

2010年12月 6日 21:42

2010120411540000.jpgこのところ日本中でおかしな天気が続いています。

あちこちで竜巻が起きたり、気温が上昇して夏のような地域があったり、どうなっているのでしょうか?

今年もあと残り少なくなりましたが、いつもこの時期になると気になるのが、手帳と日記帳です。

特に手帳はなかなか気に入ったものに巡り合えないのが私の悩みでしたが、10年くらい前にスペインのロエベで買った手帳はずっと使い続けています。

薄茶色のベロアに爬虫類様の型押し模様が付いたもので、その手触りといいサイズといい私のお気に入りで、毎年、レフィルが発売になると日本でそれを買っては入れ替えて使ってきました。

ところが4年位前に突然その手帳が製造中止になってしまい、私は他の手帳を探さなければならなくなりました。

 私の手帳選びには少しこだわりがあります。

横書きであり、字を書く行が太めであること。私が小さい字が書けないので、これは必須条件です。

もちろんスペースが十分あることも大切で、開いた時のスケジュール欄の配置など、毎年売り場にあれだけ並んでいる手帳の中からでも気に入ったものを見つけることができずにいました。

来年こそは・・・と11月頃になると東京に行った折に、銀座の伊東屋に寄り、「手帳発見」と意気込むのですが、まだ11月だというのに売り場に並ぶ人の多さを見ただけで私はくじけていました。

ある時、いつも行っている三条の病院の事務室で手帳の話になり、そこの事務長も気に入った手帳のカバーが壊れたので変える・・・という話になりました。

彼が使っていたのはゴルフ場を経営している会社が作っていた手帳でしたが、そのレフィルが私の欲していたものにピッタリだったのです。

それ以来、彼のところに毎年送られてくる手帳のレフィルを私に回してもらうことにしています。

先日も彼に電話で「来年の分お願いします・・・」と、しっかり予約しました。

この頃では、この手帳がますます手に馴染んできて、時々、気分転換に手帳を変えようかな・・・と思うこともあるのですが、絶対に他の手帳への浮気はできなくなっています。

PPKクラブ

2010年11月30日 22:05

DSC_0001 _640x425_.jpg吹き始めた木枯らしの中で町行く人々は、心なしか背を屈めコートの襟をたてて足早になっています。もう12月ですから当然ですね。

先週の25日から私は新潟の三条市に行き、そこで2日間仕事をしました。実はただ飲んだくれていただけでしたが・・・。

そして、土曜日には先日ノロ騒ぎで会えなかった孫の顔を見に東京経由で仙台に戻りました。

そんなバタバタしているところに、突然、息子達から仙台に行くとの電話をもらい焦ってしまいました。

せっかく仙台の家でゆっくり休もうと思っていたのに、少しもこちらの都合なんて考えない家族に私の思惑はすっかり外れてしまいました。

とはいえやはり家族に会うのは嬉しいものです。

土曜の夜と日曜日の午前中は長男夫婦と孫にお付き合い。そんな訳でさすがの私も疲れ果てていました。

それでも日曜日の午後には、兼ねてからの約束通り福住町内会の人たちと梅田川流域遊歩道を歩いてきました。

これは薬局との連携で行っている健康管理システムで、歩いて足腰を鍛え元気な体を(老後を・・・)作ろうという試みです。

私はこの福住の集団を「PPKクラブ」と名づけました。

PPKは「ピン・ピン・コロリ」の頭文字をとったもので、ピンピンして生き、最後は長病みをしないでコロリと最後を迎えるという意味です。

そのためには、足腰を鍛えて転倒から寝たきりにならないようにしようということなのです。

このシステムの言いだしっぺは私でしたので、疲れてはいましたがどうしても福住の皆さんと歩きたかったのです。

皆さんは万歩計をつけて毎日歩いているのですが、この取り組みに賛同する人を増やさなければと考え、月に2回、おじさん、おばさん軍団で梅田川流域を歩くというデモンストレーションをすることにしました。

付き合いで参加をしている人も多いのは知っていますがそれでも良いのです。

そんな機会を作らない限り、人はなかなか歩くなんてできないのですから。

 午後3時過ぎ空気のひんやりし始めた梅田川の岸を私は愛犬ユキちゃんを連れて歩き始めました。

今年はいつになく川岸に緑が残っています。

セイタカアワダチソウやわずか何輪かの薄紫の花を付けたシオンもまだ川岸で風に揺れていました。

 

ノロウイルス感染症(感染性胃腸炎)

2010年11月25日 21:24

2010111109290000.jpg秋晴れの日が続き、イチョウの黄色の葉がきれいです。

今月は市民公開講座を開いたり、病院へ行ったり、講義に行ったりとバタバタしています。

週末には孫の詩織がやってくるからと自分に言い聞かせ、指折り数えてその日を待っていました。

それなのに土曜日の朝に娘から突然の電話です。

「2日くらい前に詩織が嘔吐と下痢をしてすぐに治ったのだけど、今朝から私がピーピーで行けないわ。」

かたわらでギャーギャー泣く詩織の声が聞こえています。

「ユキちゃんに逢いに行く~!ウェーン・・・。」

孫も楽しみにしていたのですよね。

土曜には詩織に会えると思っていたのに、私も力が抜けてしまいました。

まあ、体調がよくないのだから仕方がないです。

 

それにしてもこのところ、あちこちでノロウイルスの話をよく聞きます。

ノロウイルスはもともと二枚貝(牡蠣など)の中腸に生息していることが多く、それらを食べたり、調理した人の手やまな板などに付いたノロウイルスが食品を汚染し、それを食べることで罹るのですが、同じものを食べても罹らない人もいます。

牡蠣の本場の宮城では一番神経質になる時期ですね。

いつもなら、もう少し寒くなってから発生が増えるのですが、今年はすでに「注意報!」が出ている地域も多いようです。

ウイルスは感染者の吐物や下痢便の中にも出てきます。

その始末をする時には、必ず手袋をして、吐物や便のついた場所を十分に消毒し、その後、手洗いをして感染を防ぎます。

嘔吐、下痢の症状が出た場合には、軽ければ消化の良いものを食べて、手をよく洗って人にうつさないようにすることです。

もちろん、早めにお医者さんに行くのも良いですね。

水分がどんどん体から出ていってしまうので、水分の補給は忘れずに。ポカリスエットのような電解質の含まれた飲み物が良いでしょう。

柑橘類のジュースは胃には刺激が強いのでお勧めしません。

犬と飼い主

2010年11月16日 22:32

2010102716520000.jpg先日、ワクチンについての市民公開講座を開きました。

その時にポスターを作りましたが、適当な写真が無く、面倒なのでブログの写真と同じものを使いました。

2日くらい前にそれを見たある人から、「岩崎先生って犬っぽい顔ですね。」と言われました。

「やはり・・・。」

とうとう、私が似てしまったのか、ユキが私に似たのかわからないけれども、似ているのでしょうね。

昔、感染症研究所の所長だった倉田先生が、私が犬を飼ったと言った時にしてくれた話を思い出します。

先生は早起きで、国立の自宅を6時ころには出て、研究所のある新宿戸山に向うという毎日を送っておられました。その時に、いつも何組かの犬連れの人とすれ違うのだそうです。

「それが、犬と飼い主が同じ顔をしているんだよ。恵美ちゃんもきっとそうなるよ・・・。」

倉田先生に言われたその言葉を思い出しながらユキの顔を見ています。

ユキは「なあに?」という顔で不思議そうに頸を傾げています。

ハハハハハ・・・。

蔵王

2010年11月13日 23:50

2010111110540000.jpg

真っ青な空、そして、暖かい陽射し・・・・・冬の前の、ホッとするような小春日和です。

この時期の仙台の街中では、ケヤキや銀杏の葉が陽射しの中で黄金色に輝きながら、

一枚また一枚と舞って足元に落ち葉の絨毯を作ります。

私は今頃の仙台が一番好きです。

そんな日に私は蔵王の麓の遠刈田へ、職員研修の講師として出かけました。

何度か訪れているその研修所から見る蔵王山系の手の届くような近さに広がる風景がお気に入りで、元山ガールとしては、立山や穂高、常念などの山々を歩いたころを思い出すのです。

そして、また山ガールではなく、山おばさんに戻りたい気持ちが刺激される風景なのです。

ところが、どうしたわけか、何度か訪れているのに、一度も蔵王の頂まではっきりと全景を目にしたことはないのです。

やはり、今回も頂は雲の中でした。

でも、麓から中腹までは素晴らしい紅葉が見え、中腹はもう雪化粧されていました。

よほど私は精進が悪いのかしら・・・と少ししょげていました。

研修所での講義は「ワクチン」の話。講義の相手は製薬の流通業界で働く人。

必要なところに、必要な薬品やワクチンを、必要な量届ける。買占めや無駄を少なするためには、彼らの調整力が必要なのです。

そのためにも、彼らにも正しい感染症やワクチンの知識をと始めた講義でしたが、講義を受ける人たちからも、自分達の役割を自覚する姿が感じられて嬉しくなっていました。

帰りの車の中で、こんな日を日本では小春日和と言うけれども、アメリカではインディアンサマーと言ったなあ・・・と思い出していました。

秋田の病院でのインフルエンザ流行

2010年11月10日 22:39

友人と駅で会う約束をして出かけた私の携帯電話に、

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突然、見覚えのない番号から電話がかかってきました。

 

それは、以前、取材を受けたことがあったスポーツ紙からの電話でした。

このスポーツ紙からは、以前から時々感染症に関わる事件が起こると電話をもらっていましたが、それは取材というより感染症を報道するにあたって専門家の私にその解説を求めたものがほとんどでした。

私は彼らのその誠実な姿勢に感心し、好感を持っていました。

 

駅の中のレストランに入っていた私は、「秋田の病院でインフルエンザの死亡者が出ているのですが・・・」という記者のその事件を確認する手段もなく、とりあえず彼の話を聞いた中で推測して答えることにしました。

「ゴメン。私は今詳細がわからないから、今わかっている情報を教えて。」と答える私に、彼は秋田の病院で発生したインフルエンザによる死亡者のことを話し始めました。

こうして、私は秋田の病院での院内感染を知りました。

 

「亡くなった患者さんはワクチンを受けていたの?」

「インフルエンザワクチンは受けていたらしいです。」

「ジャ、肺炎球菌ワクチンは受けていたのかな?」

「・・・それって何ですか?」

「高齢者がインフルエンザに罹った場合には肺炎を併発して亡くなることが多から、肺炎球菌ワクチンを受けて肺炎に罹るのを防がないと危険は高いの。もしも、肺炎球菌ワクチンを受けていたら重症な肺炎にならなかったかも。」と答えて電話を切りました。

死亡した人達は、その地域で流行している型のインフルエンザに罹っていました。

結局、病院外から持ち込まれ、院内に感染が広がり、病院内で流行してしまったことは、記者の話を聞いただけで推測できました。

記者が最初に「多くの死亡者が突然に・・・」と言っていたことから、はたまた、「重症な新型インフルエンザの流行か?」と思ったようでした。

インフルエンザでは以前にも、老人病院で複数の死亡者を出し問題となったこともあったのに、まだまだインフルエンザに対する知識や感染症に対する知識は医療関係者でも不十分で、少しも学習してないなと強く思いました。

ハロウィン

2010年11月 6日 22:57

2010103016140000.jpg今年もハロウィンがやってきました。

日本でもこのハロウィンがずいぶん浸透してきましたね。

クリスチャンでもない日本人がキリスト教の行事に・・・。

まあ、日本のクリスマスを考えると、日本風ハロウィンもありかな?という気がしています。

私は孫の詩織の英語クラスのハロウィンパーティーへ娘の代わりに付き添いで行くことになり、その衣装を用意しながら、ずっと以前に過ごしたフィラデルフィアを思い出していました。

この頃から寒さが厳しくなるフィラデルフィアの街は、パンプキンランタンやハロウィンの飾りでオレンジ色にすっかり変わります。それが過ぎると、サンクスギビング、そしてクリスマスへ・・・。秋から冬への季節の変わり目を教えてくれるのがフォラデルフィァでのハロウィンでした。

ハロウィンではおもちゃ屋さんで買ったり、作った衣装で仮装した子供たちが、各家のドアをノックし、「ツリック オア ツリート」と言いながらお菓子をもらってまわります。

普段はお菓子をあまり与えられない子供たちにとっては大きな楽しみでしたが、それを食べさせたくない親たちは、もらってくるチョコやお菓子の山にため息をつきながら、どうやって子供たちから取り上げるかを話題にしていました。

それから、当時は毒入りのお菓子などを子供に渡されるといけないと必ず大人がついてまわっていて、初めてフィラデルフィアに行った年のハロウィンでは私がその当番になり、同じアパートに住んでいるサラ、その友人のキコ(実は後で秋篠宮妃になられたことを知ったのですが・・・)、私の友人の息子テディ、そして長男を連れて行くことになりました。

ウルトラマンに扮した長男、カウボーイのテディ、プリンセスのサラとキコを連れ、警戒して知人の家や同じアパートの中で交流のある人のところしかまわりませんでしたが、それでも袋にいっぱいお菓子をもらい子供たちは嬉しそうにハシャいでいました。

私はティンカーベルになりたいと言う詩織にヒラヒラのスカートをはかせ、折からの台風で強い雨の降る中をパーティー会場に出かけました。会場で羽と頭の飾りをつけてあげると詩織は大満足。

遠い日を思い出す一日でした。

「Living with it!」

2010年10月28日 21:40

それにしても寒いですね~。2010102721050000.jpg

このところ、いろいろ仕事が重なってチョットバテ気味でしたが少し復調です。

それは多分何よりも看護雑誌の連載エッセイの原稿を編集に送ってしまったからでしょうか・・・。

月一回の連載ともなるとすぐ次の締切日がやってくるのですが、とりあえず先のことは考えずに、「ヤレヤレ!」と今はひと休みしています。

毎月いい加減に始めて、結局好い加減に終えて送っているのですが、テーマを見つけるところから書き出すまで、そしてそれをどのように纏めるかそれなりに結構苦労しています。

まるで、大作家が締め切りに追いかけられているように…。

少しばかり書くことが好きで、煽てられて始めた連載でしたが、以前に3年続けていました。

そして今年また、以前と同じタイトル「Living with it!」に“続”を付けて再開しました。

このページタイトルは、SARS(重症急性呼吸器症候群)が香港や中国で大流行した時に出版された写真集からとりました。

SARSに罹って亡くなった人や治った人・・・そんな人たちの顔だけを写した写真集で、SARS流行の混乱の後に訪れた香港の本屋さんで見つけました。

この本には、「SARS流行で私達は混乱したけれども、それでも私達は生きています。そんな病気と一緒に・・・」とメッセージが付けられています。

そのタイトル「Living with it!」が特に気に入って、この本は今も私の大切な宝になっています。

そして、感染症の専門家としても、私はこのメッセージを肝に銘じています。

 

ビバ・・ラテン!  チリ落盤事故に思う

2010年10月23日 15:26

花.png33人の銅採掘現場に閉じ込められた男達が、先日全員無事に救出されました。

災害や争いごとの絶えない現在の世界で、奇跡とも思えるようなこの救出劇に世界中の人々が沸きました。

33人の中で最後に救出された人の統率力が話題になりましたが、ラテンでは力やお金のある人がない人の面倒を見るのは当然のことで、力のある人の言うことは皆良く聞き従います。

ですから、地下に閉じ込められた人達が一人の力強い仲間に従ったのは容易に想像することができました。

それに加えて今回は、このリーダーが先を見越して少ない食料をコントロールしたりできる判断力を持っていたことが、皆にとってラッキーなことだったと思います。

私はかつてパラグアイに住み、ラテンの人々と生活していたので、彼等の考え方や感性をよく知っています。

ラテンの人たちは基本的に楽天家です。だからとても陽気です。その日のお金がなかろうが食べ物がなかろうが気にしません。そして、男は皆、大の女好きです。

メディアは連日様々な視点でこのニュースを報じていましたが、特に日本では、ラテンの人々の生活や考え方が理解できないために、面白い所に興味を持って報道しているのを、私はニヤニヤして見ていました。

閉じ込められた男達の中に愛人がいて、彼が救出後にどちらに帰るか・・・ということをメディアは心配していましたが、ラテンの多くの男性には愛人がいて、突然愛人の元へ行ったかと思うとまた帰ってくる・・・私が住んでいたパラグアイでは、こんなことはよくある話でした。

敬虔なクリスチャンと言いながら、神様の前で結婚したのとそうでなく結婚したのでは違うのだとパラグアイで私の近くにいる男性からはよく聞かされました。

そんなラテンの男にとって頭の上がらないのは、愛人や奥さん以上に母親です。

母親の意見で判断する男性は多いのです。(言い方を変えるとマザコン?)

パラグアイ時代に、冷蔵庫の中のビールが目的で我が家に通って来ていた若い男の子がいました。彼は来るたびに挨拶のように、「恵美子・・・好きだよ。」と言ってくれました。

それがある日突然、「恵美子、好きだよ。ママよりも・・・。」に変わりました。

これが注意信号です。人情沙汰でどこかの女性に刺されて死ぬなどゴメンです。

なにしろパラグアイでは、死因の10位以内に殺人が入っているのですから。

 

 

 ※イラストは パラグアイの国花である時計草(とけいそう)

もめん茶屋

2010年10月18日 21:25

2010101716020001.jpg私が公務員を辞めてから、すでに1年以上の時間が過ぎてしまいました。

辞めた時点では何をしようかいろいろ考えましたが、結局はいつもの私らしく、とりあえずは依頼を受けた講演、執筆などをこなしながら、その先の道を探そうと決めました。

もともと臨床医でしたので、また医師として医療現場で仕事をしたいという強い思いはもちろんありました。しかし、病院勤務やクリニックを自分で開設するよりも、自分自身の臨床医としての経験、途上国での医療経験、国の役人としての経験、地方行政での経験・・・、これら全てを役立てられる仕事はないだろうかと甘い夢のようなことを考えて今の道を歩き始めました。

その結果、講演など外での仕事以外は、事務所を兼ねている自宅で過ごす時間が長くなっていきました。

最初は愛犬との生活を楽しめると単純に喜んでいた私も、どんな時でもお構いなしにやってくる愛犬たちの相手で色々なことが中断されてしまうことに気がつきました。

これではいけないと、解決策を探していたところ見つけたのが、近所の喫茶店「もめん茶屋」でした。

ここは自宅からも近く、私にとってはありがたいことに日曜日もやっていて、何よりコーヒーの味が好みだったので以前から時々立ち寄ってはいました。しかし、いよいよ日参するようになり、もはや「もめん茶屋」は第2の仕事場となりました。

お店の真ん中の大きなテーブルの窓際の席が私の定席となり、そこに座ると私の仕事モードはスイッチオン!

私のわがままをいつもニコニコ聞いてくれる男前のご主人の好意に甘えて、今日もいつもの席でパソコンを開いていました。

ここのメニューの中で私のお気に入りは、「仙台味噌チーズトースト」。デザートも絶品で、「スイートポテト」、「カボチャ入りチーズケーキ」は、洋菓子屋さんのケーキとは一味違った美味しさで私を虜にしています。

 

高齢化社会の中での女性の役割

2010年10月13日 21:12

突然の招待状に戸惑いながらも恐る恐る、「女性=健康」 ―健やかな日本の今日と明日のために― の開幕シンポジウムに出かけてきました。シンポジウムの基調講演やコメンテーターには綺羅星のように並ぶ有名な人々、極め付きは懇親会に皇后陛下もおいでになるというから、いくら図々しい私でも少々戸惑ってしまいました。

基調講演では、ガーバーディング米国メルク社ワクチン部門プレジデントが「最近の医学や医療技術の進歩による恩恵」、堂本暁子前千葉県知事が「今日の家庭と社会における意思決定者としての女性の役割」、ブルントラント元ノルウェー首相が「ライフスタイルと女性のリーダーシップ」と、それぞれの経験を交えて、女性の重要な役割についての講演がありました。

その後のパネルディスカッションの中では、まだまだ未熟な日本の中での男女差の問題が取り上げられました。

これらの話を聞きながら、私は高齢化社会の日本が今考えなければならないことは何か、また、そのような中での女性の役割の大きさを真剣に考える時期にきていることを痛感しました。

わずか数時間でしたが、酷く真面目になった一日でした。疲れました~

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ワクチンの市民公開講座を開きます

2010年10月11日 11:06

 

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晴れの体育の日です。

夏の暑さにすっかり参っていた気持ちまでもこの青空で元気になりますね。

 

昨日、東京から戻ると、「女医会」から手紙が届いていました。

その中には私の念願だった市民公開講座のチラシとポスターが入っていました。

「どうしてワクチンは必要なの?」というテーマでお話します。

インフルエンザに始まり、このところワクチンのことがいろいろ話題になっていますよね。

話題にはなるけれども、では実際にワクチンを受ける人は・・・というと必ずしも多くありません。

そのような現実をずっと見てきましたので、「ワクチンとは何?」とか「ワクチンは何で必要なの?」といった、基本的な話をわかりやすく解説する場を作らなければと常々考えていました。

それがようやく宮城県女医会に引き受けていただき、開催にまで至ることができました。

そこで一人でも多くの方々にワクチン接種の大切さを伝えられたらと考えています。

また、これからのインフルエンザ流行期にあたり、何をしたら良いかも皆さんにお話ししたいと思っています。

この市民公開講座は、11月7日(日)に仙台市医師会館で開催されます。

詳しいことはまたこのブログでもお知らせしますので是非とも聞きに来てください!

 

〇〇才の足(?)習いは快調。

2010年10月 9日 01:12

2010100710150000.jpg8月末に始めた乗馬・・・三日坊主でなくまだちゃんと続いていました。

仕事の合間を縫っては乗馬クラブに駆けつけ、時にはまとめて3鞍も乗ってしまうこともあります。(1鞍=45分)

ビギナーのクラスですので、時には子供達と一緒のこともあります。

今のところは週一ペースで通えていますが、かといって格好良くナミアシ、速歩が出来るわけではありません。

それでも馬に乗ることが楽しくて仕方がない!のが今の私です。

何よりも動物と接点を持ちながら運動が出来るのが良い・・・程度に思って始めた乗馬でしたが、想像以上に収穫があり嬉しいのです。

この数年間は仕事柄、自分の足で歩く機会はほとんどなく運動もしてなかった私は、自分の足腰の弱まりを痛感していました。

たまに東京に行き娘や孫と買い物と張り切ってはいても、東京の人たちの歩くスピードについてゆけずにヨタヨタと歩く私を見て娘は心配していました。

私自身もこのままでは、「転倒~大腿骨骨折~寝たきり」路線をまっしぐらと思っていたのですが、ひょんなことから始めたわずか数回の乗馬で足腰がしっかりして軽くなってきているのが実感できて、馬に乗る回数が増えるごとに嬉しくなっています。

私は馬の上で秋の夜風に吹かれながら、気持ちまでも軽くなるのを感じていました。

残念ながらお腹の脂肪だけはあまり軽くなってはいませんが・・・。

 

若者の居場所

2010年10月 3日 21:15

2010100216090000.jpgマンションの前の金木犀が甘い香りを漂わせています。秋ですね~。

 

先週、久しぶりに故郷の新潟で、娘の友人がやっているという居酒屋に、娘、息子達夫婦と孫2人が集合しました。

そこは繁華街からは外れた小さな家が軒を連ねる街で、昔はそこに酒屋や米屋、時には縄のれんの居酒屋があったり、びっちりと隙間なく建てられた小さな家々に、人々は肩を寄せ合うように生活していました。

路地には共同水道の跡が残っており、玄関の脇にはなぜか決まったように八つ手の木が植えられていました。

今でもそんな昔のままの町並みを残す小さなしもた屋の外観はそのままで、内装だけを今風に改装した居酒屋へ娘は私を連れて行きました。

入り口には洒落た店の名前を染め抜いた暖簾がかけられ、焼き鳥屋らしい赤いちょうちんが夜の闇の中に浮かんでいました。

暗さに私の目が慣れると、その店の一軒置いて隣や、向側にも同じようなお店があることに気がつきました。路地全体においしそうな匂いが漂い、お店の中からは賑やかな笑い声や人々の温もりが感じられました。

大した看板があるわけでもないのに集まる人々・・・。おそらく口コミや一度友人などに連れられて来た人々が、これらのお店を支えているのでしょうね。

「なぜここにお店を出したの・・・?」と私が尋ねると、娘の友人である若い店主は、「この路地でお店を出している人たちは皆若い人ばかりです。この辺りは家賃が安いから。中心部の繁華街では今はとても無理ですよ。」と笑いながら答えてくれました。

しかし、その繁華街はというと、シャッター通りと化しており、中心部で育ち昔の夜の賑やかさを知る私は感慨深い思いで眺めていました。

昔なら仕事帰りに「モッキリ」を一杯引っ掛けて帰るような場所で地味に生きる若者の姿。

それはそれで素晴らしいと思いましたが、何か外に向かってノビノビと羽ばたけずにいる若者の思いを聞きながら、私は大人として今の社会への責任を感じ胸が痛くなりました。

しかし、考えようによっては、そんな路地の中にもささやかな場所を見つけ、何とかしようとする若者の逞しさも感じたような気がして少しだけホッとしました。

そして、そんな彼の焼き鳥は、鮮度が味に出ており、材料選びへのこだわりが伝わってくるものでした。

 

萩の花

2010年9月21日 21:30

2010091815360000.jpg街の真ん中に住んでいる私にとっては、季節感を肌で感じる機会は決して多くありません。

それでも、昨夜は私が住んでいるマンションの裏口から近くのコーヒーショップに行こうとした時、横の雑草の茂みから、賑やかな虫の鳴く音が響いているではありませんか。

コウロギかな?鈴虫ではないな・・・・?少し寒くなり始めた季節に虫の音はなくてはならないものです。

日中の気温が夏のように暑くとも日照時間は明らかに違いますから、季節が変わっていることを生物はしっかりと認識しています。

そう言えば、公園では萩の花も満開でした。

 

私はこのところの東京、長野、福井と続いた講演地方巡業の疲れが溜まったのか、気力もいまいち、チョット力が入りません。

やりたいことは山ほどあるのに、どこから手を付けたらよいか・・・。

逢う人には、「一つ一つ、焦らないでね・・・」とは言われるのですがね。

そうそう、先日、乗馬を始めたことを、このブログに書きましたが、今もしっかりやっていますよ。

まだまだ、何も出来ないけれども、相手が動物であること・・・これって凄く癒されると痛感しています。

いつも違う馬に乗るのですが、それぞれ特徴があって面白いです。

そのうち、乗馬の報告を書きますね。

とりあえず、萩の花の写真を付けますので、許してくださいね。ハハハハ。

 

秋色

2010年9月14日 17:36

ようやく、暑さも終わりだな・・・・と、私は今朝の雨を見ながら思っていました。

そして、せっかちな私は、直ぐに、夏物をクリーニングに出す準備に取り掛かからなければと思い立ち、クローゼットに向かいました。

そして、クローゼットを開けて、私はビックリ・・・・・・・・・!

なんと、目の前に並んでいたのは、赤い上着、ピンクのスーツ、クリーム色のワンピース・・・・・今の私には、袖を通す気にもなれないものばかりが並んでいました。

この所、クローゼットを開けて着替えることもなかった私は、クローゼットの中に、こんな服が並んでいようなど、全く気付いていなかった。

「そうだ、私、こんな服を着て、仕事をしていたんだっけ・・・」と、懐かしくその頃のことを、思い返していました。

良く考えると、これらを着ていたのは、僅か一二年前の話し・・・そう昔のことでもないのに、今の私には、何か遠い時代の出来事のようにしか思えません。

そして、洋服を見ながら、まあ、無理をして着ていたんだろな・・・と思わず呟いていました。

この所の、精神的かつ、肉体的なバタバタで、私は着る物のことを考えるゆとりも作れなかったのだなと、クローゼットに並ぶ洋服を見ながら、私は、改めて思っていました。

 

そんな私に、この所、少しお洒落をしてみようかなとの気持ちの変化が生まれてきました。

きっと、それは夏の終わりにショウウィンドウに飾られるカーキ、ワイン、茶・・・の秋色の洋服が、私の気分を刺激したのかもしれません。

そして、無理をして、立場や仕事に合わせて洋服を選ぶ必要もないんだから、もっと自由に、自分の好きな色や形を、誰に気兼ねすることもなく、自分の生き様をそのままを表現できる洋服を着ようと、思い始めたのです。

そんな気分で、先日、久しぶりに洋服を探しに街を歩きました。

目に付くのは、渋い、昔好んで着ていた洋服と同じようなものばかり。

 

そして、黒のスーツと、その中に着るワイン色のセーターを買ってしまった。

そして、ようやく、遠回りをしたけれど、また、しっかりと私は元に戻っているのだなと思えて、嬉しくなっていました。

第一印象

2010年9月 7日 22:26

この1週間は、外での講演、講義などの仕事が続き、流石の私も、少しお疲れです。

きっと、旅行好きな人だったら、この時とばかり、講演先から足を伸ばして、観光をしたり、史跡を訪ねたり・・・・・楽しむに違いないのですが、残念なが、私は生来の“ものぐさ”と来ており、旅を楽しむ所か、それなりにストレスになってしまいます。

 

昨日は、福井市での講演でした。

その前の日に長野での講演があり、そこから直江津を経由して福井に向かうのが、普通の行程なのでしょうが、電車の接続はあまり良くないし・・・・・・と、私は、東京から福井に向かう仲間と一緒に福井に行くことを選んでしまいました。

それも疲れた原因の一つでした。

行く前には、東京の友人と、東尋坊に行こう・・・・と計画を立てていたのですが、台風が来ていることも気になり、また講演が続いて疲れたこともあって、結局、何もせずに福井では宴会だけで、帰ってきてしまいました。

福井での仕事は二度目でしたが、そう言えば、前回の思い出もほとんどありませんでした。そして、今回もまた、残念ながら、それほど強い、良い印象も持てないまま、福井から戻ってきてしまいました。

 

今回は、まず、駅から講演の会場に向かうタクシーの運転手さんにガッカリしてしまいました。

暑い最中、しかも会場が近すぎたことも、彼が不機嫌だった理由だったかもしれませんが、着いていきなりの彼の対応に、私はすっかり落ち込んでしまいました。

「暑いですね・・・」・・・私。

「・・・・・・・」運転手さん。

「町の景気はどうですか?」私。

「・・・・」運転手さん。

 

ひょっとしたら、タクシーの運転手さんに私の声が聞こえなかったのかもしれません。あるいは、煩い婆さんの相手をしているほどの暇はなかったのかもしれません。

駅で出会うタクシーの運転手さんは、街のイメージを決めることにもなって、重要なのに・・・・・と思いながら、私はタクシーを降りました。

 

人間はきっとこんな些細なことで、人や土地の印象を決めてしまうんですよね。

第一印象は何事にしても大切!

長野の一日

2010年9月 5日 11:04

信州の朝は、やはり爽やかです。朝もやの中で戸隠や飯綱の山並みに取り囲まれて、久しぶりの長野の空気を、私は心から満喫しています。

9月になっても一向に秋らしいお天気にならない日本。毎日、30度を越える日が続き、日本中が暑さに、疲れ果ているなかで、ラッキーにも私は忙中間ありの時を過ごしています。

実は、昨日から、私は学会での講演のために、長野に来ています。

昨日の日中は30度を有に越えていたこの長野でしたが、朝の空気は爽やかで、やはり秋です。

車中から見える線路際には、ススキの穂が揺れていました。

少しも涼しくならない・・・と私達人間は文句を言っていますが、自然は冷静に着実に、秋に向かっています。

それは、花や自然が、気温ではなく、日照時間によって、自分の予定を淡々とこなして、生きているからです。

日照時間が短くなってくれば、花や鳥、いろんな自然界の生き物は、秋を感じ、自分の命を燃やしてゆくのです。

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萩、くず、ススキ・・・・・秋の草花は、しっかり、誠実に自分のスケジュールを自覚し、こんなに暑い夏のような気候で、秋風が吹かなくとも、可憐な花をつけ、ススキの穂は風に揺れていました。

そんな泰然自若とした、自然の営みを見ていると、俗社会での人間の争いや衝突なんて、何と小さいことか・・・・・

 

長野での学会の講演の前の、僅かな時間に、このブログを書いています。

さて、明日は福井だ~

夏バテ・・・

2010年8月28日 18:49

流石の私も、このところの暑さには閉口しています。

でも食欲だけは哀しいけれどもなくならずに、お腹の回りの脂肪の浮き輪は順調に成長中!

 

やりたいことは山ほどあるけれども、暑さの所為か、気が散って、何処に重点を置いて手を付けるべきか・・・とウロウロしているうちに時間はどんどん過ぎてゆきます。

 

実は、念願かなって、11月の始めに、宮城県女医会で、仙台市医師会館で市民公開講座を計画していただきました。そこでワクチンのことを話す機会をいただきました。

出来るだけ多くの市民の方々にワクチンについて、正しい知識を持っていただきたいと言うのが、私の切なる願いでした。

ワクチンと言うと小児科の話し?・・・そして副反応があるじゃないの?・・・・こんな言葉が私達の頭の中をグルグルめぐりますが、それはワクチンについて、十分に理解してないからなのです。

もちろん小児科でのワクチン接種は私達の基本です。その基礎ワクチンの上に、成長ともに、追加する必要があるワクチンも多いのです。

市民公開講座では、世界では如何にワクチンが重要視されているかなどの話を、経験を始めてしたいと考えています。何しろ、途上国で医師として働いていたときには、私の主な仕事はワクチン接種でした。

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それは、治療にかけるお金がない途上国では、まず罹らないようにすることが一番で、そのためには予防のためのワクチン接種に力を入れるのは当然です。

その時の光景です。
←パラグァイでの検診、ワクチン接種の風景。

 

 

また、時間など、決まったら、ここで発表をしますので、よろしくお願いしますね。

乗馬・・・

2010年8月22日 20:22

乗馬・・・

とうとう、私は、念願かなって、今日、馬に乗ってしまいました。

健康器具の「ジョウバ」でなく、本物の馬に・・・・・・・ずっと興味を持っていたのですが、中々、切っ掛けがないまま、今日まで来ておりました。

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それがヒョンなことから、一日体験入学があると聞き、今日、乗馬のクラブに出かけて行って、ついに、今日それを達成することが出来た訳です。

この所、何かスッキリすることのなかった私の中の、久しぶりの爽快感・・・・大いに満足して帰ってきました。それどころか、これから正式に始めよう、入会までして帰ってきてしまいました。

丁度、東京から来ていた娘と孫に、馬を見せようと、一緒に連れて行きましたが、その娘は、私の無謀さに呆れて果てて、帰ってゆきました。「一晩くらい考えたら・・・」と言いながら・・・

 

実は馬に乗ったのは、今回が初めてではなかったのです。

10年以上前、私がパラグァイで仕事をしていた時に、二回位、経験してました。

当時、カアアパと言う町へ、地域保健の向上のための専門家として、JICAから派遣されていた私は、そこで仕事をする中で、何度か、馬に腕を噛み切られた人に遭遇し、現地の医師と伴に、治療に苦労しておりました。

そんな時に、手術場で、「一度は、馬に乗ってみたいね・・・・」と話したのが、当時一緒に働いていた病院の院長の耳に入り、直ぐに手配してくれ、実現したものでした。

パラグァイでは、鞍は付いているものの、鐙はまともでない、馬でしたが、病院の職員にお尻を押してもらい、よじ登って乗りました。

その時の印象は、馬の背中に乗ると、凄く高い・・・・と、言うこと程度で、あまりはっきりした記憶はありませんでしたが、馬の背から見渡す風景には、魅せられるものがあると、感じました。

 

その記憶が、頭の片隅に残っていたのでしょう。

「乗馬をしてみたい・・・」と言う私の願いは、ドンドン大きくなるばかりでしたが、私が幾ら言っても、皆は、「ジョウバ」と言う運動器具でも買って乗るのかと思っていたようでした。

 

今日、乗った馬はおとなしいおじいちゃん馬で、私は完全に馬鹿にされていました。

最初だから当然でしょうけれども・・・・彼は、悠々として、鬣をやさしくなでてあげると嬉しそうにしていました。

最後に、にんじんのご褒美を彼にあげて、「ジャね・・・」とお別れの挨拶をして帰ってきました。

この次は、何時行けるだろうか・・・・

親って・・・・・

2010年8月17日 10:34

お墓参りを兼ねて、夏休みと脱日常を目指して、12日から15日まで、仙台を離れました。

12日には、昔からお手伝いしてきた、新潟の三条市の草野医院へ顔を出し、そこで数人の患者さんの診察をし、自分が医者であることを再確認(?)し、その後、墓参りと母親のP6230007.jpgご機嫌伺いに、新潟の実家へ向かいました。

折から、日本海を北上していた台風の影響で、新潟はフェーン現象の真っ只中。生温かい強い風が吹き、その上、時々雨まで叩きつけるような空模様でした。

12日は、三年前に亡くなった父の誕生日で、どうしても私は父のためにも、12日に墓参りをしたいと思っていました。父の好きだった吾亦紅を墓前に供える花の中に入れて、花束を作ってもらいそれを持って、私はお墓に向かいました。

父の眠るお寺は、新潟の街中のデパートの横にある小さなお寺です。

お寺は、台風にも拘らず、墓を綺麗にお掃除する人や、墓参りをする人で賑わっていました。

 

そう言えば、去年は、いろいろあって、お盆に墓参りに来れなかったんだ・・・・・それで、秋のお彼岸にお参りに来たんだったっけ・・・・

もう、父が亡くなって、3年も経ってしまったんだ・・・・・・・父の墓の前で、改めて思い返していました。

 

実家では、95歳の母が私の着くのを待っていました。

母は、耳は遠くなり、足腰は弱まったものの、一切の介助なしで、一人で生活しています。ただ、隣の町内に妹が住んでいて、朝晩母と一緒にご飯を食べくれるので、私は安心して、仙台にいることが出来るのです。

母は、まだまだ口は達者で、自分の義理の妹を老人ホームに見舞った話を、着いたばかりの私に、「可哀想に・・・」と一言付けて加えながら、話してくれました。

一人住まいの母は、人が訪ねて来るのが嬉しいらしく、私が着くと、直ぐに、冷蔵庫からお菓子や果物を、いそいそと私の前に並べてくれました。私は母の私を喜ばせようと、懸命に動く母の姿を見ながら、私は母がとても愛おしくなりました。

子供の前では、親は幾つになっても親・・・・・母の姿を見ながら、自分の姿をみているような気がして帰ってきました。

民族滅亡の三原則

2010年8月10日 14:19

日本民族滅亡の危機?

先日、私はパラグァイに関係する人達のメーリングリストに投稿されていた、とても気になる文章を見かけました。

それは、世界的な歴史学者が説く、民族滅亡の三原則は・・・・1、理想(夢)を失った民族は滅びる。2、すべての価値を利でとらえ、心の価値を見失った民族は滅びる。3、自国の歴史を忘れた民族は滅びる。と、書かれたものでした。

それを私は読みながら、「フーン…」と、一人でうなずいていました。

それは、今、日本での話題の、高齢者の行方不明などをこのメールの投稿記事と重ねていました。

私達は、日本人としての自負も、人間としての自信も失いかけているのだろうな・・・と、私はその投稿を読みながら思いました。

 

「話し合うこと」と「言い合い」を混同し、アウンの呼吸で全て解決してきた結果、お互いに意思が通じなくなり、その上、自分の考えを発信する場も失ってしまったのが、今の日本人かもしれません。そして、日本民族は、自分で衰退の道を選んで来たのかもしれません。

 

この辺りで、日本人として、人間として、如何あるべきかを真剣に考えなければ・・・

経済は大切ですが、それが全てではないはず。心の重みも、情も、なくなってしまい、「武士は食うわねど高楊枝・・」のやせ我慢なんて、何処に言ったのだろうか。

人の心を汲み、思いやることを平等と勘違する今の日本。DSC00673.JPG

優れている所、駄目な所・・・・皆お互いに認めあって、ある時は上に向かって努力し、ある時は素直に勝者に拍手を送る・・・・私達は、そんな人間としての心を失ってしまっていない?

 

「仙台」と言えば「七夕」

2010年8月 7日 13:45

昨日から仙台では七夕が始まりました。

東北の夏祭りの最後を飾る仙台の七夕。その飾りの規模の大きさなどもあり、「仙台」と言えば「七夕」と条件反射のように言われるこの仙台の七夕祭りですが、私にとっては、街中は人で溢れ、車は渋滞し・・・・この数日は恐怖の数日になります。

何しろ、何処に行くのも、混雑のために、大変になるのです。時間など、何時も通りに予定したら、トンでもないことになってしまうのです。

それを知っていながら、私は、昨日の朝、大きなポカをしてしまいました。

何時もならタクシーで数分で着く会場のホテル・・・・・そんなつもりで、ぎりぎりに出たばかりに、講演の開始に遅れ、関係者を困らせてしまいました。

ゴメンナサイ!

暑さのためか、いよいよボケが始まったのか・・・・昨日、家に戻ってから大いに反省し、ショボンとしていました。

 

人間と言うのはある程度、一定のルールで縛られ、時間などでの制約がある中で生きている方が、やはり緊張感が持続するのかもしれないと、強く思う今日この頃です。

そう考えると、今の私の生活は規則もなく、下手すると「サンデー毎日」・・・・家でパソコンに向かっていても、メリハリがなく、二人の子供(ユキちゃんとファービー)相手では、ボケるわね~

ソンクラン

2010年8月 5日 20:07

ハス

暑い~

ジリジリ焦げるような陽射しや暑さに、体力も、気力もすっかり消耗しています。

この所の強い日差しの中を歩きながら、私は10年以上前のバンコクでの日々を思い出していました。その頃、私はタイのマヒドン大学で、熱帯医学を学んでいました。

雪のチラつく新潟から、灼熱のタイに渡った私は、その暑さに体が適応できずに、非常に苦労してしまいました。

学校まで20分の所にアパートを借りていた私は、朝、7時半頃に部屋を出て、陽が高くならない内に学校に着くように、自分なりに、熱帯に順応しようと、工夫していました。

しかし、着くまでに顔は汗で、びっしょり・・・・・そんな私の顔を見たクラスメートは、「恵美子、シャワー浴びてきたの?」・・・・

 

タイの一番暑い季節、4月にはソンクランと言う、水掛祭りがあります。

その時には、町中の人が、誰かれかまわず、水を掛けるのです。水鉄砲で、あるいはホースで・・・・時には、いきなりバケツを持ってでてきた人に頭から水を掛けたり、酷い人は後ろの襟首を捕まえて、水を背中に流し込みようにかける人もいます。

バスに向かっても水が向けられ、乗客が水を掛けられてキャーと悲鳴を上げる・・・・こんな光景が一日中、町のあちこちで見られました。

そんな中で、最初は笑って、逃げていた私も、ついに背中に水を流し込まれた時には、切れてしまいました。

シャツからズボン・・・下着までビショビショになり、私はついに、思わず大きな声で「やめて!」

一緒に歩いていた同級生には、「恵美子、スマイル!」・・・・でも私の顔は、笑えず、顔を引きつらせていました。

熱帯ですから、びしょ濡れのズボンもシャツも、下着も直ぐ乾いてしまいました。

 

暑い日がやってくると、私はタイの大学に通っていた頃を思い出しています。

日本でも8月にソンクランでもやるか・・・・   8月5日 花火を見ながら

同居人(犬)

2010年8月 2日 14:24

ユキとファビ-.jpg私は今、ユキと言う名前のビションフリーゼと、ファービーと言う男前のチワワの二匹の小型犬を飼っています。私的には、二人の子供と住んでいます・・・と言った感じです。
日本では、子供の数は増えないけれど、ネコや犬などのペットの数は増え続けているようです。この私ですら、犬を飼っているのですから・・・・・
 

このマンションを探す時には、ペ  ットを飼えるかどうかが選ぶ時のポイントでした。4年前には、街中でペットを飼えるマンションは決して多くなく、苦労して探したマンションでした。
それが今では多くがペットを飼えるマンションに変わっています。それは、如何に多くの人々がペットを飼っているか・・・と言う現実を示していると、言う気がし
ます。

我が家の二人には、メチャクチャ甘い私は、娘にも言われてしまいました。
「ママは私達の子育てに失敗してきたのに、また子育てに失敗しているよ!」

私が、外出から戻り、家の入り口のドアを入ると、二匹のお出迎えの姿が、居間のドアのガラス越しに透けて見えます。靴を脱いでいる私に向かって、「何処に行っていたのよ?・・・」と、ワンワン吠えながら訴えている二人の姿・・・・ドアの向こうで跳ねているユキ、その後ろでファービーがウロウロしている様子は、私に嫌なことも、疲れも、何もかも忘れさせてくれます。
毎日、こんな風に、この二人に癒されています。

   

八月になってしまいました。

2010年8月 1日 16:25

八月になってしまいました。
つい、事務所の引越し、溜まった原稿の処理・・・・今週に控えていた、講演の原稿整理、画像の組み立てと、次々と出てくる仕事に、ついに押しつぶされて、書く時間も、気力を失せて、サボってしまいました。
8月4日には、自治体の実務者向けの講演会と言うことで、時事通信が企画した、超高齢社会での医療、保健、福祉などを考えよう・・・・との趣旨の研修会が東京で開催されます。
その講演会に声を掛けていただき、話す機会を頂き、嬉しく思っています。
もちろん、私の担当は感染症対策です。高齢化社会の中での感染症対策のあり方について、話しをします。ここでは、今まで私が、医師として、あるいは行政側の人間として、また公的な立場と、民間での立場の両方を経験してきたものとして、今まで私が実施してきた感染症対策について、「超高齢化社会」では如何したら良いか・・・について、私見を、話すことにしました。
特に予防に無関心な医療関係者や、今ひとつ腰が引けた行政には私なりに、言いたいことがあったので、良い機会をいただいたな・・・・と思い、話の内容を考えました。
実際、超高齢化社会・・・と言葉では言うけれども、それが、どういう状態が引き起こされ、それに対して私達は具体的に如何するべきか・・・・
私は、このような時代に、私達には何が出来るか、何処までできるか・・・・を、真剣に考えなければならない時が来ているような気がしています。
今回、私は、狭い感染症対策についてだけを取り上げて、話をしますが、誰もが、今のままの感染症対策で良いとは思っていないはずですから・・・・・

夏休みスタート

2010年7月17日 09:39

 

Blue hills.jpgのサムネール画像のサムネール画像蒸し暑い日が続いていますね。   西日本で集中豪雨・・・・・ゲリラ雨と 言うようですが・・・・・に多くの地域が襲われ、犠牲者も出ています。

時代とともに、災害の形態も変化  してきているのかもしれませんが、温暖化で日本が熱帯化して、この ような天候にとも言われています。

私は、天候には大きな変動があり、今のこの天候もその変化の中の一つではないかと思っています。

だって、日本では今までも多くの災害に襲われてきているのですよね。

例年だと、そろそろ台風に見舞われ、被害が出ているものが、ここ最近は、風も吹かないのに、突然、豪雨が降り始めて、流されたり、崖崩れが起こったり・・・・

今起きていることが、この所、自分たちが経験してきた天候や災害と違うだけで、きっと、もっと長いスパンで考えると、こんなことが繰り返されてきたのではないでしょうか?

自然と人との間で、せめぎ合い、あるときには人間が自然を征服したかのように、住宅地を広げ、川を埋め、山を削りしてきたのが、また自然の力に戻されている・・・・・これが今のさまざまな災害のような気がします。

私たちは、ずいぶんセッカチニなって、ものを考えるのにも、すごく短いスパンでしか考えられなくなってきてしまい、今、私たちの周りに起こっておることは、今までも起こってきた・・・・と、言うことを忘れているのではないかしら。

自然の力は大きいし、どんなに文明が発達しようが、自然を征服することは絶対に出来ないのに、あまりに便利な世界に馴れてしまった私達は、それをすっかり忘れかけているような気がします。

今、私たちの周りで発生している災害は、無神経に自然の中に入り込んだ人類が起こした人災かも知れませんね。

この連休から学校では夏休みが始まりますね。

多くの人々が海に山に、行楽地に・・・・実家に・・・・民族大移動のような数日間が続きます。

どこに行く当てもない私は仕事でもしますか・・・・・・

感染症対策の講演にて

2010年7月12日 16:28

Blue hills.jpgのサムネール画像

7月10日、私は岡崎市で開催された三河感染・免疫研究会にパネラーとして話をする機会をいただきました。

もちろん、パネルディスカッションを計画した方々から私が期待されたことは、私が仙台市時代に実施した、新型インフルエンザ対策の話でした。

その対策が、国の対策と違ったことから、多くの注目を集め、「仙台方式」との名前までいただき、多くの場所で、取り上げていただき、対策を考え、実施してきた者としては、うれしく思っています。

このいわゆる、「仙台方式」は決して特殊な方法ではないのですが、特別な目で見られていることに違和感を感じていました。

よく言われるのは、「岩崎さんがいたから出来た・・・・・」と言うことでした。

私自身は、確かに途上国での経験もあり、世界の重篤な感染症については見ていますが、この対策には、普通のことを対策として実施しただけなのです。

実際に現場で出来る方法で、限られた医療関係者、施設の中で、市民に混乱を起こさないようにするために考えたのが、「仙台方式」なのです。

そんな経緯などを話しながら、感染症対策はそれぞれの地域の事情に合った対策を、さまざまな情報に惑わされないで、冷静に実施することを考えていただきたいと願いながら、話をしています。

何よりも、感染症対策の基本は、感染症の基本に忠実にそったものでなけラバなりませんし、その中で自分たちでできることからはじめることが、大切であることを知ってもらいたいと思っています。

 

ワクチン由来の感染症のニュースについて

2010年7月 8日 07:35

Blue hills.jpgのサムネール画像

きのうのニュースで、ポリオワクチンを接種・・・経口ワクチンなので、飲んだのですが・・・・ワクチンを飲んで1週間後に小児麻痺に罹り、足が麻痺してしまった子供の映像が放送されていました。

特に生ワクチンでは、弱毒化したウイルスを使うことから、そのウイルスが時には変化し、強くなったりすることもないとは言えないのです。しかし、現在では、ワクチンの安全性については、しっかりと管理されているのですが、それでも、そのリスクはいつも考えなければならないことなのです。

実際、ワクチン接種で発生する健康被害については、きちんと国やワクチン業界が保障する制度は、国には出来ていますが、では、出来るだけ被害の発生しないようなワクチン作成にお金を出し、ワクチン企業を支援しているか・・・・と言うと、国は過去のワクチン摂取後の被害の賠償などの対応で精一杯で、真剣に取り組むゆとりがないように感じられ、悲しい思いです。

国の対応しだいでは、またこの映像を見た人々が、「ワクチンは恐ろしい・・・だから、ワクチン接種はしたくない・・・」と言う判断に向うのではないかと、不安になります。

ワクチンは感染症から人を守り、それと同時に、その周りの人も感染から守る役目を果たすものなのです。すなわち、ワクチンは個人を病気から守ると同時に、社会で流行させないようにし、病気の流行を抑え、社会全体を病気から守るための大切な予防手段であることを、皆がきちんと、情報提供をしてもらわなければ・・・・・

そんな知識は今の日本では、少し足りないような気がします。

ブログ奮闘記

2010年7月 6日 16:11

とにかく、ブログに慣れること・・・・と皆さんに言われるけれども、中々、アナログ人間の私には、慣れるのが難しいのが現実です。

まあ、何でも良いから歩き始めること・・・・書き始めること・・・と思って、暇を見ては書くように、しているけれども・・・

暑く、湿度の高い日だけれども、窓から差し込む西日が、新しく取り付けたカーテンの所為か、心なしか弱く感じられ、うれしいです。

                                            

私とパラグァイ

2010年7月 6日 11:51

ールドカップで燃えた日本の熱気は、日本代表が、パラグァイ戦でPKの末に、惜敗を期すと同時に、すっかり、褪めてしまった。

しかし、いろいろ言われる中で、試合毎に成長して行った日本チーム・・・・スポーツでは試合で実力が出せずに、萎縮してしまう人と、その中で成長し強くなって行く人がいるが、まさに日本チームは後者だったような気がする。

ゲーム自体を楽しむと同時に、人間の底力や成長をゲームの中で目にし、感じることができると言う点で、スポーツの奥深さで、醍醐味かもしれない。

私はかつてパラグァイに住んでいたことがある。

彼らと仕事を介し、パラグァイの田舎町での生活を通して、パラグァイ人の気質などは、良く知っていたので、日本との試合が始まる前は、どちらにも勝ってほしい気持ちで、一杯だった。

何しろ、パラグァイ人は、南米の中でアルゼンチン、ブラジル、チリなどの大きな力のある国に挟まれ、サッカーでは、いつも大舞台では萎縮してしまっていたし、経済力などからも、引け目を感じていた。

しかし、パラグァイ人の良いところはそんなパラグァイでありながら、卑屈にはならない所だった。まあ、ラテンの陽気な気質なのだけれども・・・・

そんな彼らが、私は大好きだった。

そんなパラグァイが、ベスト8まで行ったのだから、私はパラグァイをほめてあげたいと思っている。

日本戦でもパラグァイはかなり萎縮したと思う。それは、日本がサッカーが強いからでなく、大きな力のある先進国で自分たちはかなわない国だからだ。

そんな国が、あの緊張感の中でやりきったのだから・・・・

パラグァイ人にはインディオの血が流れており、そのDNAは私たちと同じ・・・・彼らは日本が大好きで、憧れの国でもあるのだ。

そんな国で彼らと過ごした時間、あの時の仲間はどうしているだろうか・・・・・などと思いながら、ワールドカップを楽しんでいた。

もちろん、日本チームの成長や活躍はうれしかった。

パラグァイと同じように大舞台に弱い日本人が堂々と戦う姿に、私は小さな島国に固執せずに世界の羽ばたく人が増えていることを感じ、うれしくなっていた。

                           7月6日

ブログに慣れなくては・・・

2010年6月24日 20:20

この所、ワクチンに対する自治体の公費助成が政策として掲げられることが
増えています。
このような事態を私は、非常に嬉しく思っています。
公費助成によって、少しでも人々の負担が少なくなれば、国民がワクチンを受け
るためのためのハードルは下がり、素晴らしいことだと思います。
実際、ワクチン接種にかかる費用については、今苦しんでいる病気を治療する
ために必要な費用とは違って、その成果を直ぐに実感することが出来ないため、
どうしても、優先順位は低くなってしまいます。そんな理由で、ワクチンにお金を
・・・と言うことになると、難しいのが、現実なのです。
しかし、そこに公費助成が付けば、人々が支払うお金は少しでも、少なくなり、
その結果、ワクチンは受けやすくなります。
そんな意味でも、自治体のワクチンの公費助成は、願ってもないことです。
しかし、実際には、自治体が公費助成を実施してもワクチン接種率はあまり上がって
いないのです。
このような実態に対して、対策を考える必要があるのです。
ワクチン接種で予防できる感染症は一杯あります。
しかし、ワクチンを接種する人が日本では少ないのには、日本人独特の考え方・・・
「自分だけは罹らない・・・」が基本にあるような気がする。
ワクチンは個人を守るだけでなく、その人が属する社会も守ると言う認識が
まだまだ、日本の中では希薄で、悲しくなります。

チョットご無沙汰しておりました~

2010年6月23日 17:31

春も過ぎ、梅雨に入ってしまいました。

あちこちで豪雨や長雨のニュースが聞かれ、日本も雨季がやってきたな・・・と思いながら、朝から降り続く雨の中を歩いています。

そんな中で、私は、何年か過ごした東南アジアや南アメリカの国での医療活動を通して学んできたことを思い出しています。

これらの地域は熱帯や亜熱帯性気候に属し、日本のような四季はありません。あるのは、雨が降らない乾季と雨が降る雨季に分かれているだけです。それらの地方では、雨季になると、降ったあめによって出来た水溜りでは、感染症を媒介する蚊などが、一挙に繁殖し、雨季の前とは全く違う世界が始まります。

熱帯と言えども、雨季に入ると気温が下がるので、そんな中で風邪をひく子供や、蚊によって媒介される病気が流行します。それらには、アジアでは日本脳炎、デング熱、マラリアなどいろいろあります。

そんなアジアでの雨季を思い出しながら、ひとり言を書き始めました。

 


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