2000年(平成12年)10月ウガンダのグル地区で、エボラ出血熱のアウトブレークが報告されました。
エボラ出血熱のような重篤な感染症流行の現場での患者の診療経験者のいなかった日本では、日本の医療現場での治療や対応に活かすこと、病院内でのバリアーナーシング(感染予防対策)構築や、医療従事者に対するスタンダードプリコーション(標準予防策)の教育に取り入れることを目的として、その危険な現場へ医療スタッフを派遣することを決断しました。
「ウガンダでエボラ出血熱のアウトブレークの医療に参加できたら行きますか?」
厚生省(現:厚生労働省)からの電話が飛び込んできたのは2000年10月19日頃のことでした。ウガンダのエボラ出血熱の流行は、インターネットでもちろん知っていました。
しかし、そこへの医療参加が可能とは考えてもいなかっただけに、驚くと同時にずっと熱望していた現場での医療参加の要請に、「もちろん行きます。行かせて下さい!」と即座に答えました。
私はこれまで感染症の頻発する途上国での医療経験が何度かありました。その経験の中には、患者を前に診断はおろか何をする術もなく、悔しい思いをしたこともありました。
途上国などでは、言い伝えや迷信を信じている人々が多く、採血するのも困難なことがあります。そんな時は、まず住民と仲良くなり、部族の長からの信頼を得て初めて検診や医療ができるのです。また、患者が住む場所から自分が拠点にしている場所への移動に多くの時間を費やさなければならないため頻繁に通うことができず、その間に患者が亡くなってしまうということもありました。
日本ではまず経験することのない感染症に罹った患者を実際に診断してきた経験から、一度でも診たものは決して忘れないし、たとえ典型的な症状であっても、実際に診なければ適切な診断は困難であることを、身に泌みて感じていた私は、日本に帰国後、感染症対策の最前線である検疫所に勤務するようになってから、最も重篤な一類感染症である、エボラ出血熱、ラッサ熱などの患者を実際に診ることをずっと願っていました。
厚生省はWHO(世界保健機関)との話し合いの結果、国立感染症研究所感染病理部・佐多徹太郎部長と、現場への渡航を希望していた私を、WHOの短期医療専門家として、ウガンダ・エボラ出血熱アウトブレーク対策へ正式に参加させることを決定しました。2000年10月24日のことでした。
WHOは、私たちにウガンダの現地での医療に参加する際に、自分たちを防護するための装備(プロテクションギア)を用意するように求めてきました。
検疫所では、1999(平成11)年の「感染症新法」の制定以来、新たに検疫感染症となった一類感染症対策のために、空港検疫所を中心に防護資機材を配備していました。私たちはストックのもっとも多い成田空港検疫所に防護資機材の提供をお願いし、それを持参することになりました。
そのような重篤な感染症の現場での経験のない私たちには、現場で何が必要か、またどのような装備が有効かなど見当もつかず、できるだけ多くの資機材を持参すれば何とかなる…と、安易に考えていました。
そのような経緯で決まったウガンダ行の準備は、何もかもが急ごしらえで、実際できあがった荷物はダンボール箱10個になってしまいました。
荷物の中には、長靴、防護服一式(といっても現在の宇宙服のような防護服ではなく、手術時に身につける術衣のような服を何着も持って行きました)、その他、患者使用も想定し、また万が一の場合に自分たちにも使えるようにと、何本かの輸液など、考えられる資機材を納めました。