ホテルの部屋ではインターネットはもちろん使えませんでしたので、私たちにとって日本との唯一の連絡手段は、ヒースロー空港で借りてきた衛星電話でした。
午前中、もう一つの患者収容病院である、ラチョー病院の見学に行くことにしました。この病院はイタリアのミッション系の病院で、ベッド数500のアフリカでも有数の病院でした。
整備されたこの病院には、17年ここに勤務しているイタリア人の院長と医師、シスター、看護婦、そして現地の医師や看護婦、看護学校の生徒たちが働いていました。設備は日本のちょっとした病院並みでした。
今回のエボラ出血熱流行が判明したきっかけは、9月にグル近郊の村の葬儀に参加した、この病院の看護学校の学生やその家族が死亡し、さらにその治療に当たった医師が死亡したことでした。霊を信じるアフリカでは、葬儀は大切な行事でした。葬儀は2~4日続き、その間に参列した人たちが死者との別れを惜しんで、遺体の体を拭いたり、洗ったりして、死者の霊を弔う習慣があり、これが感染拡大に大きな影響を及ぼしたことは確実でした。
最初のエボラ出血熱の犠牲者の多くが、葬儀に参列した人の中から発生していました。それらの状況からも十分推察できたはずでしたが、それを誰もエボラ出血熱とは考えず、特別な対応がとられないまま時間が経ち、大きな流行になってしまいました。
ラチョー病院は、WHOから派遣された医師たちによってバリアーナーシングの徹底したグル病院とはまったく違っていました。医療関係者はディスポーザブルでない布製の予防着を使っていました。予防着は、私たちが使っている防護服のように防水ではないので、汚染は間違いなく医療従事者の体にまで及んでいたでしょう。また宗教的な点からも、一部の看護婦は素手で医療に当たっていました。そして、帽子、マスクなどすべての防護装備が不十分でした。
結局、これらが最後まで改められなかったことが、感染事故による犠牲者が多く出た理由の一つとであると思われました 。
ラチョー病院の玄関では院長のマティウスが私たちを迎えてくれました。この時は、まさかこの頑丈そうなマティウスが、エボラ出血熱に感染して亡くなるなど、想像もしていませんでした。しかし、エボラ出血熱の流行も終息に近づいた頃、急変した患者の対応で感染し、彼が亡くなったことを帰国後に聞かされました。それまで頑張って働き続けてきたマティウスはきっと疲労がたまっていたに違いなかったのでしょう。
写真:バリアーナーシングの徹底したグル病院